『道南の旅』-勝山館跡、他-
こんにちは、ご訪問頂きありがとうございます。
今回は、「勝山館跡、他(かつやまだてあと、ほか;上ノ国町)」(上ノ国町字勝山)を紹介します。
(訪問日:2019年(令和元年)7月下旬)
前回まで「旧檜山爾志郡役所」などを紹介してきました江差町を後にして、次は隣町の「上ノ国町」に向かい、まず国指定史跡・北海道遺産である「勝山館跡(かつやまだてあと)」へ行くことにしました。
国道228号線を南下し、上ノ国町市街地を過ぎ天の川(あまのがわ)に架かる橋を渡って数百m行くと、左手に古民家が見えてきました。
↑ 駐車スペースから見る日本海風景
↑ 駐車スペースにあった説明板
旧笹浪家住宅
「何だろう?」と思い車を停めてみると、傍にあった標示板からその建物は「旧笹浪家住宅」だということ、目指していた「勝山館跡」への入口が近くにあることなどが分かりました。
道路を挟んで反対側の海岸沿いに駐車スペースと公衆トイレがありましたので、そこに車を止めて見学に行くことにしました。
↑ 重要文化財「旧笹浪家住宅」
「笹浪家」は上ノ国で代々鰊漁(にしんりょう)などを営んできた旧家の一つで、この住宅は19世紀前期に五代目久右衛門が建てたといわれています。
北海道に現存する最古の民家建築で日本海沿岸に残る鰊番屋の原型ともいわれ、主屋などが重要文化財に指定され平成15年から一般公開されています。
上國寺本堂
↑ 勝山館跡へ向かう入口付近の様子、入口を入って行くとまるで登山道のような道が続いていました
↑ 勝山館跡へ向かう入口付近には「上國寺本堂」もありました
重要文化財に指定されている「上國寺本堂(じょうこくじほんどう)」は北海道最古の寺院建築で、江戸時代の記録で永禄3年(1560年)頃に建立され室町時代に存在した寺院だそうです。
勝 山 館 跡
ロードマップには「勝山館跡」という表示があるだけでしたので「『勝山館跡』…、何だろう?「函館」なら知ってるけど…」、恥ずかしながら行ってみるまで私は「勝山館」について何も知りませんでした。
↑ 「勝山館跡」へ向かいます、雰囲気は「登山」のような道を登って行きました
「勝山」というのは「館」のある所の地名、「館(たて)」(「たち」とか「やかた」とかとも読むそうですが、中世以降には砦(とりで)など軍備を伴った山館(やまだて)、平館などを意味するようになったそうです。
『 伝説 荒神堂跡(こうじんどうあと) (説明板より)
天文十七年(1548)上ノ国の守護蛎崎基広が謀叛を企て、四世季広に討たれたが、夜毎に基広の亡霊が暴れたので、その墓所に堂を建て祀ったところといわれる。 』
夷王山(いおうざん;標高約159m)の東麓にある松前藩の礎を築いた武田信広(たけだのぶひろ)が15世紀後半に築いた山城(約35万㎡の広さ)が「勝山館」であり、16世紀末頃まで武田・蠣崎氏の日本海側での政治・軍事・交易の一大拠点となりました。
↑ 勝山館跡へと入っていく入口になる「虎口(こぐち)」に着きました
※ 駐車スペースにあった案内板によると「勝山館跡」へ行くには「上り」「下り」の2コースがあり、私が歩いたコースは「上り」でした。そこには以下のように紹介されていました。
『 A 勝山館跡見学コース(上り)
1㎞/1400歩/1時間
勝山館跡を上って散策するルート。勝山館入口付近の歴史的建造物と勝山館跡の主郭を散策する。体力に自信のある方は是非挑戦してください。 』
天然の丘陵を利用した三段構えの山城で、近年の発掘調査によって国内外陶磁器・金属製品・木製品などの他に建造物の跡なども発掘されました。
当時のアイヌの人々が使っていた骨角器も出土し和人とアイヌ民族が混住していたと考えられ、北海道中世史を知る重要な史跡となっています。
『 城代(じょうだい)の住居あと (説明板より)
この建物は城代(城主に代わって城を守る人)または重臣の住居と思われるもので、勝山館の中では客殿の次に大きく、立派な建物です。内部は客間、居間、寝室、台所などの部屋に分かれていたと思われます。 』
↑ 「城代の住居あと」です、その一角では草取りなどの作業をしている方々の姿も見られました
『 客殿(きゃくでん)のあと (説明板より)
この建物は勝山館跡の中ではもっとも大きな、中心になる建物で、舘の主(あるじ)が使っていたと思われます。板塀で囲まれた約2000㎡の敷地の中にあります。客殿は広さ約30㎡の正方形(三間九間:さんけんここのま)の部屋が二室続いています。南側の部屋は客人をもてなすための部屋(客殿)で、畳が敷かれ掛け軸などが飾られていたと思われます。その隣は居間(常居)、奥の部屋は寝室・書院(御座の間)などと考えられています。また客殿のまわりには別棟の玄関や台所と思われる建物や、庭、専用の井戸などもありました。
発掘調査ではルソン壺と呼ばれる高級な茶壷などのお茶道具、紅を溶いた皿(紅皿)などが見つかっています。茶碗や皿などの食器も中国製のものが多く使われています。 』
『 庭のあと (説明板より)
客殿の北西部に直径5mmほどの小砂利(こじゃり)が一面に敷かれ、中央には直径12cm前後の平らな小石が並べてありました。医師が抜けてしまった部分もありますが、「平庭(ひらにわ)」のようなものだったようです。
客殿の主は、北隅の書院(御座(ござ)の間)からこの庭を眺めていたと思われます。寺ノ沢にある石積みの「鶴(つる)の池」の周りにも庭があったようです。』
『 鍛冶工房(かじこうぼう)のあと (説明板より)
-鎧修理(よろいしゅうり)・作業場のあと-
板塀(いたべい)で囲まれた敷地の西隅に、4×5mの範囲で小砂利(こじゃり)が敷き詰めてありました。純度99%の銅の地金(じがね)や銅を溶かす皿、炉(ろ)に風を送り火力を高める鞴(ふいご)の羽口(はぐち)などの鍛冶作業に必要な道具や、釘317本、鎧(よろい)を作る鉄の板(小札こざね)149枚、鎧の銅製飾り金具37点などが見つかりました。館主の鎧を修理したりする作業場だったと思われます。 』
『 井戸と板塀(いたべい)のあと (説明板より)
客殿(きゃくでん)や城代(じょうだい)の住居がある敷地は、南西部を一段高くして板塀を立て、ほかの地区とはっきり区別しています。客殿には広場に面した板塀南端の門から出入りします。板塀の近くには深さ5.2mの客殿専用の井戸がありました。 』
↑ 住居の跡
『 馬屋(うまや)のあと (説明板より)
広場に面して馬屋があります。内部が6つに仕切られた建物跡の隅で馬の歯が見つかりました。ほかの場所からも馬のあごや足の骨などが見つかっています。これらの馬は、今の馬より一回り小さいものが多く、ドサンコと呼ばれる「北海道和種馬(ほっかいどうわしゅば)」などの日本の古代馬と同じ仲間と思われます。勝山館では早くから馬を飼っていたことがわかります。 』
『 中央の通り (説明板より)
と櫓門(やぐらもん)
勝山館中心部の中央を幅約3.6mの道が通っています。道の両端には、板と杭で土留めをした幅45cmほどの溝があり、両側の住居から流れ出る雨水などを流す工夫がされています。
正面の橋を渡って40mほど中に入った所に、通りをまたぐように立つ、とても大きな四本一組の柱跡が見つかりました。遠くまで見渡す櫓門という高い門があったと思われます。 』
↑ 掘立柱建物跡
↑ 「クラの跡」(画像・左)、「住居跡」(画像・右)
『 東の厳重な守り (説明板より)
-帯郭(おびぐるわ)と物見櫓(ものみやぐら)
勝山館跡の中央には幅3.6mの通路が通っています。道の両側に、広さ100~140㎡ほどの土地を階段状に造って住居などを建て、平地全体を柵で囲んでいます。
中央の道の南東側は、宮ノ沢に向かって切り下げられ、沢のすぐ上の三段目は細い帯のようになっています(帯郭)。堀の上や郭の東隅、帯郭の上には物見櫓があり、帯郭に沿って小さな建物が並んでいます。館を守る兵が集まる小屋かと思われます。
勝山館の東側は厳重に守られていたことが分かります。 』
↑「鳥居跡(とりいあと)」(画像・左)、「室町創建社跡(むろまちそうけんしゃあと)」(画像・右)
『 館神八幡宮跡 (説明板より)
1473年松前氏初代武田信広は舘の上に八幡宮を祀(まつ)り館神と称しました。この頃までに勝山館も出来上がったと思われます。
高い部分を削り下げ、西から南を囲む土塁を作って柵を立て、正面に搦手門(からめてもん)を設け堀を渡る橋を架けています。
土塁の内側で掘立(ほったて)柱の建物跡と礎石立(そせきだて)の建物跡が見つかりました。掘立柱は創建当初の社跡(やしろあと)で、礎石は1770年に修理した本殿覆屋(おおいや)の跡と思われます。北東部分の土塁はこの頃に築かれたもののようです。
現在の上ノ國八幡宮本殿は1699年に造り替えられたもので、1875年に現在地に遷(うつ)された北海道最古の建造物です。 』
↑ 「土塁(どるい)」(画像・左)、「柵列(さくれつ)」及び「搦手門(からめてもん)」(画像・右)
↑ 「空堀跡Ⅲ(からぼりあと さん)」
『 搦手(からめて)の構え (説明板より)
城の正面を大手(おおて)といい、背後を搦手(からめて)といいます。勝山館の両側は寺ノ沢と宮ノ沢に深く刻まれ、天然の要害になっています。後ろ側の尾根が細くなったところを堀り切って空堀を作り、内側に土塁を高く築いてその上に柵をめぐらせ、厳重に守りを固めています。
土塁の中央には門を構え、空堀Ⅲは断面がV字形の「薬研堀(やげんぼり)」となっていました。
空堀は15世紀後半から18世紀の間にⅠからⅢの順に造り替えられていますが、ⅡとⅢは一緒に使われた時期があったとも考えられます。 』
↑ 「室町期貝塚」
↑ 「土葬墓群」
『 ゴミ捨て場跡・土葬墓群 (説明板より)
空掘Ⅰとその北西の斜面一帯に勝山館の人たちのゴミ捨て場跡が見つかりました。
その中にはツルなどの鳥、オオカミ・シカ・アシカ・クジラなどのほ乳類、ニシン・ホッケ・サケなどの魚の骨、さらには柿の種、米粒、青磁(せいじ)、染付(そめつけ)などの茶碗、硯(すずり)、香炉(こうろ)、フイゴの羽口(はぐち)、下駄などが2m以上も堆積していました。
ゴミに混じって壮年男性の骨も見つかりました。墓に埋葬してもらえなかった人のようです。
ゴミ捨て場の真向かいに土葬墓が41基あります。体を曲げて棺(ひつぎ)に入れ、1.6×1.2mほどの穴の中に埋葬しています。釣り針や鎧(よろい)の小札(こざね)が副(そ)えられた墓もありました。 』
『 勝山館の (説明板より)
後ろの守り
ー神仏に守られて-
1470年頃、夷王山の東に勝山館が造られました。館の中心部は二つの沢に挟まれた丘の上で、周りの柵や、前と後ろの空堀(水のない堀)などで守ります。堀に架かる橋から続く道が舘の中央を通り、道の両側には住居などが建っていました。
一番高いところに舘の守護神、舘神八幡宮があり、夷王山(医王山)には薬師如来などが祀られました。山の麓には勝山館跡の後ろを取り囲むように650あまりの墓があります。勝山館の後方は神仏や祖先に守られていたことが分かります。
この近くからは、ゴミ捨て場や井戸、池、倉庫の跡なども見つかっています。 』
↑ 「夷王山墳墓群(いおうやまふんぼぐん)」
『 夷王山墳墓群 (説明板より)
のアイヌ墓
仏教様式の墓と隣り合って、頭を東に向け身体を伸ばして埋葬した墓が見つかりました。身体の脇や上に太刀(たち)を置き、漆器(しっき)や小刀(こがたな)などをそえた男性の墓です。一人は錫(すず)製の耳飾りをつけています。江戸時代のアイヌの墓の様子と同じなので、勝山館の中にアイヌの人たちがいたと思われます。
このすぐ北は斜面を削って砂利(じゃり)を敷いた墓所で、小屋根をかけた墓や、アイヌの子供のものと思われる墓もあります。 』
勝山館跡ガイダンス施設
「勝山館跡ガイダンス施設」が併設されていて、勝山館跡の200分に1の模型や土葬墓、火葬墓のレプリカがおかれ夷王山墳墓群の一部が再現されているそうです。
私が現地を訪れたのがは早朝で開館前の時刻でしたので、中の展示物などを見ることは残念ながらできませんでした。
『 夷王山墳墓群 (説明板より)
勝山館跡の背後から夷王山の麓のあたりに6地区に分かれて600基あまりの墓があります。2×1.8m、高さ40cmほどの土饅頭で、径が7mほどのものもあります。
火葬をした骨を箱などに納めて埋めたり、遺体を曲げて長方形の棺に納め北枕に土葬し、土や石を高く積んで墓を作っています。宋銭や明銭、漆塗りの椀(わん)や盃が納められることが多いのですが、大きな墓には硯(すずり)、玉なども副(そ)えられていmした。
いずれも仏教洋式の墓と思われますが、シロシのついた漆器(しっき)を副葬した墓やアイヌの流儀で葬られた墓もあります。また火葬の跡も見つかりました。
これらの墳墓群には勝山館を築いた武田信広とその一族、さらに勝山館を中心に中世の上ノ国を支えた多くの人たちが眠っていると思われます。 』
↑ 勝山館跡ガイダンス施設
夷王山神社
夷王山神社(いおうざんじんじゃ)は夷王山(いおうざん;標高159m)の山頂にあり、「上ノ國八幡宮(かみのくにはちまんぐう)」の「境内外摂末社(けいだいがいせつまつしゃ)」です。
↑ 夷王山の山頂方向を望む、鳥居や社の一部が覗いていました
↑ 勝山館跡ガイダンス施設の傍にある駐車場の隅から夷王山神社へ向かう山道がありました
武田信広を祀っていて永禄元年(1558年)の創建といわれ「上ノ國八幡宮・砂館神社(すなだてじんじゃ)」と共に「上ノ国三社」といわれています。
↑ 夷王山神社(画像・左)
↑ 夷王山神社(夷王山々頂)から見える勝山館跡・勝山館跡ガイダンス施設のようす
※ 以下の動画には、風切音などの雑音が入っていますので、視聴に際しましては音量に十分ご注意下さい。
山頂からの眺望には、かつて日本海交易で栄えた天の川河口や上ノ国市街地、勝山館の一部、さらには遠く渡島大島・奥尻島・江差鴎島も見ることができるそうです。
↑ 夷王山々頂からの眺望(日本海沿岸と天の川河口のようす)
※ 以下の動画には、風切音などの雑音が入っていますので、視聴に際しましては音量に十分ご注意下さい。
↑ 夷王山々頂から見た夷王山キャンプ場方向の眺望(風力発電施設の「風車」や「夜明けの塔」が見えています)
「夷王山キャンプ場」は、国道228号線沿いにある「旧笹波家住居・上國寺本堂」の前を通り過ぎ、「道の駅 上ノ国もんじゅ」の手前にある交差点で左折して「町道八幡野1号線」へ入り「勝山館跡ガイダンス施設」の横を通って坂道を上った丘の上にあります。
夷王山キャンプ場には、キャンプサイトA及びB、木工芸センター(トイレ併設)、北海道夜明けの塔(太陽の広場内)、風力発電施設(風車)などがあります。
※ この北海道夜明けの塔の様子は、次回に紹介したいと思っています。
※ 檜山振興局ホームページ「上之国勝山館跡/勝山館跡ガイダンス施設 / 檜山を旅しよう」・「旧笹浪家住宅」・「上國寺本堂」、北海道上ノ国町ホームページ「史跡上之国館跡 勝山館跡(国指定史跡)」・「旧笹浪家住宅」・「上國寺本堂」、フリー百科事典ウィキペディア「勝山館」、Hatena Blogサイト「藻岩颪(もいわおろし)に豊河の流れ【御朱印】」檜山郡上ノ国町 夷王山神社(上ノ國三社)」を参考にさせて頂きました。
ご訪問頂きありがとうございました。
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