『道南の旅』-函館山探訪その1-

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御殿山第2砲台跡  こんにちは、ご訪問頂きありがとうございます。

   今回は、「函館山探訪その1」として、函館山のいくつかの歴史的遺構を紹介していきます。

                                               (訪問日:2019年(令和元年)7月下旬)

 2024(令和6)年も2月に入りました。

 北海道では、例年この2月が寒さと降雪の山場となっています。

 来月3月に入ると気温の低い日や雪の降る日がないこともないのですが、日を追うごとに少しずつ春の訪れを感じられるようになり、そわそわ気分になります。

 冬に入りブログの更新がさらに滞ってしまっていることを心よりお詫びいたします。

 言い訳を許して頂くと、雪が降ると家の周囲の雪を避けるための「雪はね」(雪かき)という夏場にはない作業が入ってきてしまいます。

函館山展望台から 函館山展望台から

函館山展望台から 函館山展望台から

 路上の雪はブルドーザーがやって来て削りながら空き地など邪魔にならない所まで押し除けてくれ、それで路上の雪は数センチ残して平らにきれいに避けられ人も歩きやすく車も走りやすくなります。

 ですが、雪を押している部分の両端の雪がどうしてもその場に置いて行かれることになります。

 道路の両端に雪がこんもりと盛り上がり、山でいうと「尾根」部分がずっと伸びていりような姿になります。

函館山展望台から 

 函館山展望台から

 駐車場や車庫の出入口や住宅の玄関先にも容赦なく置いて行かれることになり、生活している私たちはそれを除けなければ駐車場や車庫から車を出すことができす、玄関先から道路へその尾根を超えて出なくてはなりません。

 そのため雪が降って除雪車が通った翌朝は、駐車場や玄関先のその雪の「尾根」を取り除くことから始め、そうしないと自家用車で会社に行くことができません。

函館山展望台から 函館山展望台から

函館山展望台から 函館山展望台から

 その朝一の作業、年々歳を重ね60代後半に入ってしまった近年は特に腰や腕に大きな負担を感じるようになってきました。

 それが毎日のように数十センチも雪が降ったりすると「もう、勘弁してくれ~」と悲鳴をあげたくなります。

 雪はね作業の日々が続くと、机に向かってパソコンでブログの更新をする気力も萎えてしまい、そのため冬季間はブログの更新が滞りがちになってしまいました。

函館山展望台から 函館山展望台から

函館山展望台から 函館山展望台から

 「また更新してない!何やってんだ!!」と思われる方が、万が一いらっしゃいましたら、そうした雪国ならではの事情がありますことをご理解の上ご容赦願えましたら幸いです。

※ 以下の動画には風切音や機械音などの雑音が入っていますので、視聴に際しては音量に十分ご注意ください。

 前置きが長くなり申し訳ありません。

 旅の続きの話題に戻りますが、前回では函館山ロープウェイに乗って山頂駅に着き、施設内外の様子等を紹介しました。

 私の中学生の頃、町内の中学校で実施される修学旅行の旅程と言えば「最寄りの駅→函館駅→青函連絡船→青森駅→十和田湖畔→十和田湖観光→青森駅→青函連絡船→函館駅→函館市内観光→最寄り駅」が標準的なコースだったと思います。

函館山展望台から つつじ山駐車場へ

つつじ山駐車場へ つつじ山駐車場へ

 その旅程の中の「函館市内観光」には、どの学校でも函館ロープウェイに乗り「100万ドルの夜景」と言われている「函館山展望台からの夜景見学」が入っていたことでしょう(悪天候の時も実施されていたのかは、今となっては定かではありませんが…)。

 そういう体験もあって、私が「函館山」から連想するのは、「修学旅行」であり「函館の夜景見学」です。

 その後、高校での日本史の学習や歴史物のテレビ番組による明治期のドラマ等を通して幕末から明治初期にかけて旧幕府軍と新政府軍による「箱館戦争」や明治期の外国侵略に備える北方警備等のようすを知り、函館山は観光だけではなく他の役割もあったことが分かりました。

 そこで今回の旅の中で「函館山」に登った際(上りはロープウェイ、下りは自前の足で)には、函館山のもう一つの顔?北方警備の要所であった旧函館要塞の歴史的遺構巡りをしてみることにしました。

   つつじ山駐車場

 函館山々頂(標高334m)にある函館山ロープウェイの建物(3階建て)の屋上が函館山展望台となっています。

 函館山ロープウェイ山頂駅や展望台の建物の周囲にはNHKや民放各局のテレビやFM放送のアンテナが所狭しと林立していました。

 私は展望台からの眺望を楽しんだ後、つつじ山駐車場を経由して「御殿山第2砲台跡」に向かったのですが、その函館山々頂にはかつて「御殿山第1砲台」が造られていたのでした。

つつじ山駐車場へ つつじ山駐車場へ

つつじ山駐車場へ つつじ山駐車場へ

 現在は函館山ロープウェイ及び展望台等の建物や放送局のアンテナ群が建てられ、地上部分には砲台跡の見る影もありませんでした。

 でも、その建物群の地下には今でも当時の砲台の遺構が残されてあったのでした。

つつじ山駐車場へ つつじ山駐車場へ

つつじ山駐車場へ つつじ山駐車場へ

 前述のように現在は各テレビ局やFM局のアンテナの建物があり勝手にその敷地内へ入ることはできませんし、また函館山のあちこちに散在している他の歴史的遺構も見て歩きたかったので時間的にも無理なので、今回は「御殿山第1砲台」の取材は断念しました。

 尚、興味がおありの方はいろいろな方々が取材されブログに綴られていますので検索してみてください。

つつじ山駐車場へ つつじ山駐車場へ

 

 私は大変興味があったので「御殿山第1砲台」について検索して調べてみました。

 現在、ロープウェイ機械室がある辺りから西方向に連なるように「右翼観測所」(敵の位置を観察するためのものらしい)から始まり、第一砲座、第二砲座、左翼観測所と続き、その地下には揚弾井(第一砲座と第二砲座の間に)、弾薬補給庫、兵舎、将校室等が造られていたそうです。

つつじ山駐車場 

つつじ山駐車場案内板 つつじ山駐車場案内板

 「函館山」は一つの山だと思っていましたが、実は展望台のあるのが御殿山(334m)で、他に薬師山(252m)、つつじ山(306m)、汐見山 (206m)・八幡山 (295m)・水元山 (280m)・鞍掛山 (113m)・地蔵山 (286m)・入江山 (291m)・エゾダテ山 (129m)・観音山 (265m)・牛の背山 (288m)・千畳敷 (250m)の13の山々の総称なのだそうです。

 今回私が巡って歩いたコースは、御殿山、つつじ山、入江山 、千畳敷、牛の背山 、地蔵山 、七曲りコースへ入り立待岬へ至り、折り返して牛の背山 (分岐)まで戻り、旧登山道の5合目から下山を始め登山口入口付近にある函館山ふれあいセンター横を通ってロープウェイ山麓駅まで戻るというコースでした。

つつじ山駐車場案内板     つつじ山駐車場案内板

   御殿山第2砲台跡

 「漁火(いさりび)公園」の眼下にはしっている道道675号線(立待岬函館停車場線)を下り、その途中にある分岐を左へ折れて進んで行くと「つつじ山駐車場」がありました。

 そして、つつじ山駐車場から散策路に入りさらに進んで行くと「御殿場台2砲台跡」がありました。

 太平洋終戦後、アメリカ進駐軍にも破壊されずに残り、2001(平成13)年には「北海道遺産」に選定されました。

御殿山第2砲台跡へ 御殿山第2砲台跡へ

御殿山第2砲台跡へ 御殿山第2砲台跡へ

 1895(明治28)年の日清戦争終結後に1898(明治31)年から約5年ほどをかけて日露戦争を想定し函館山に大小4か所の砲台等が建設されました。

 函館要塞は本州と蝦夷地(北海道)を結ぶ唯一の重要な函館港で、監視と防衛の役割を主な目的に作られましたが、日露戦争開戦後には射程外でしたので要塞からは1発の砲弾も撃たず、攻撃もされなかったそうです。

御殿山第2砲台跡へ 御殿山第2砲台跡へ

御殿山第2砲台跡へ 御殿山第2砲台跡へ

 この御殿山第2砲台には、射程7800mの28センチ榴弾砲6門が1901(明治34)年に竣工し、上磯町(現・北斗市)に向いていて敵艦の函館港侵入を阻止していました。

 その後、大正に入ると津軽海峡を通航する敵艦隊を阻止するために「津軽要塞」として再整備されました。

※ 1919(大正8)年に函館要塞は廃止され、津軽要塞が設置されることになりました。1924(大正13)年に津軽要塞の建設が始まり、1927(昭和2)年に旧函館要塞は吸収されました。旧函館要塞の砲の多くは取り外され1944(昭和19)年には旧式の28センチ榴弾砲が6門あるのみだったそうです。

御殿山第2砲台跡 御殿山第2砲台跡

御殿山第2砲台跡 御殿山第2砲台跡

※ 以下の動画には風切音や機械音などの雑音が入っていますので、視聴に際しては音量に十分ご注意ください。

『   函 館 山 の 地 質     (説明版より)

 函館山は、おおよそ100万年前に活動していた火山で、溶岩(ようがん)などの火山噴出(ふんしゅつ)物が積み重なってできています。
 すでに活動していた頃(ころ)の姿は残っていませんが、旧登山道や尾根(おね)の一部、海岸の切り立った崖(がけ)などに見られる岩石にその(あと)を見ることができます。
 函館山をつくる火山岩は、最初に噴出(ふんしゅつ)した立待岬溶岩(たちまちみさきようがん)、その次に堆積(たいせき)した千畳敷集塊岩(せんじょうじきしゅうかいがん)、さらに溶岩(ようがん)の噴出(ふんしゅつ)によって形成された高龍寺山溶岩(こうりゅうじやまようがん)、最後の噴火(ふんか)により流し出された千畳敷集塊岩(せんじょうじきしゅうかいがん)と御殿山溶岩(ごてんやまようがん)に区分されていて、いずれもデイサイト(流紋(りゅうもん)岩と安山岩の中間の岩石)から安山岩質のものです。
                     函 館 市      』

御殿山第2砲台跡 御殿山第2砲台跡

御殿山第2砲台跡 御殿山第2砲台跡の説明版

※ 以下の動画には風切音や機械音などの雑音が入っていますので、視聴に際しては音量に十分ご注意ください。

『   函 館 山 の 自 然     (説明版より)

 函館山は、火山活動や地殻(ちかく)変動により出現し、海流による漂砂(ひょうさ)で亀田(かmrだ)半島とつながった陸繋島(りくけいとう)です。三方が海に囲まれ、標高約334m、周囲9㎞となっており、別名「臥牛山(がぎゅうざん)」とも呼ばれています。
 函館山は、道南特有の温暖な気候であることや、昭和20(1945)年まで約半世紀にわたって一般(いっぱん)市民の入山が禁止されていたことなど、植物の生育にとっては恵(めぐ)まれた自然環境(かんきょう)にあったことから、約600種の植物が生育し、その約70%が本州北部地域と同種のものといわれています。
 さらに四季を通じて野鳥が生息し、また、津軽海峡(つがるかいきょう)を南下・北上する渡(わた)り鳥の休息地として重要な役割を果たしており、約150種が観察される野鳥の宝庫として、鳥獣(ちょうじゅう)保護区特別保護地区の指定されています。
                    函 館 市     

御殿山第2砲台跡の説明版 御殿山第2砲台跡の説明版

御殿山第2砲台跡の説明版 御殿山第2砲台跡の説明版

『   函館要塞(ようさい)について    (説明版より)

 函館要塞(ようさい)は、明治28(1895)年の日清(にっしん)戦争終結後に、日露(にちろ)戦争を想定し、津軽海峡の防衛強化を目的に明治31(1898)年から、約4年間を費(つい)やして函館山に大小4か所に砲台(ほうだい)が建設されました。
 他(ほか)の多くの要塞(ようさい)が軍港を守ることを目的にしたのに対し、函館要塞(ようさい)は商業港である函館港を守るために建設されました。
 日露(にちろ)戦争開戦後、津軽海峡(つがるかいきょう)でロシア艦隊(かんたい)が日本の船舶(せんぱく)に損害を与(あた)えましたが、射程外であったため要塞からは一発の砲撃(ほうげき)もされませんでした。しかし、要塞(ようさい)の存在により函館港は攻撃(こうげき)されることはありませんでした。
 その後、大砲(たいほう)は撤去(てっきょ)されましたが、大正に入り、米国を仮想敵国とし、海空の攻撃(こうげき)から函館と青森の両港を守り、津軽海峡(つがるかいきょう)における敵艦隊(かんたい)の通航を阻止(そし)するため、津軽要塞(つがるかいきょうようさい)として再整備されましたが、戦闘(せんとう)機を相手とした実戦では役に立たず、函館は空襲(くうしゅう)に遭(あ)い甚大(じんだい)な被害(ひがい)を受けました。
 函館要塞(ようさい)建設直後の明治32(1899)年に要塞(ようさい)地帯法が制定され、昭和21(1946)年に開放されるまでの約47年間、函館山への一般(いっぱん)市民の立ち入りは禁止されていました。
                     函 館 市   

御殿山第2砲台跡の説明版 御殿山第2砲台跡の説明版

御殿山第2砲台跡から 御殿山第2砲台跡から

   入江山高地観測所跡

 御殿山第2砲台跡を後にして、第2砲台跡付近の階段から散策路「千畳敷(せんじょうじき)コース」に合流し「つつつじ山」方面へと進み、次の目的地「入江山高地観測所跡」へ向かいました。

入江山高地観測所へ 入江山高地観測所へ

入江山高地観測所へ 入江山高地観測所へ

 千畳敷コースの途中に腰かけて休憩できる東屋(あづまや)兼展望台?がありましたので、立ち寄りそこから周囲のようすを覗ってみると、山陰の向こうに函館市の街並みと津軽海峡が見えていました。

入江山高地観測所へ 入江山高地観測所へ

入江山高地観測所へ 入江山高地観測所へ

入江山高地観測所へ 入江山高地観測所へ

 さらに歩いて行くと、道端に案内板と道標、ベンチが設置してある広場がありました。

 道標には真っ直ぐ行くと「千畳敷広場まで2000m」、右折して行く「入江山コース」には「一周約360m」と書いてありました。

入江山高地観測所へ 入江山高地観測所へ

入江山高地観測所へ 入江山高地観測所へ

 私は、さっそく右に折れて「入江山コース」へ入って行きました。

 散策路を進んで行くと途中に柵があり、そこから先は危険なため通行止めになっていましたが、そこを下りて行くと穴澗(あなま)海岸に出るそうです。

 穴澗海岸は、アーチストのGLAYのTERUさんが思い出の場所として紹介した所で、ファンの方にとっては聖地となっていて、晴れた日には夕日がきれいなビューポイントなんだそうです。

入江山高地観測所へ 入江山高地観測所へ

入江山高地観測所へ 入江山高地観測所へ

※ 以下の動画には風切音や機械音などの雑音が入っていますので、視聴に際しては音量に十分ご注意ください。

 私はその柵には入らず入江山の尾根沿いに進み、次の目的地「入江山高地観測所跡」(入江山:標高約291m)へ向かいました。

 歩いていくとさっき見てきた御殿場の砲台跡よりも小さい丸い砲台の跡がありました。

 さらに進んで行くと急階段の向こうに「入江山高地観測所」がありました。

入江山高地観測所へ 入江山高地観測所へ

入江山高地観測所へ 入江山高地観測所へ

 入江山高地観測所跡の手前にあった丸い砲台跡のような物は砲台ではなく、高射砲の基礎跡なんだそうです。

 入江山高地観測所跡に着くと、まず目についたのが地下室への出入り口でした。

入江山高地観測所 入江山高地観測所

入江山高地観測所 入江山高地観測所

 その出入口を地下へ階段を下りて行くと、「危険なため立ち入り禁止」の表示板がありました。

 その立ち入り禁止の場所の奥には、「通信室」があったそうです。

入江山高地観測所 入江山高地観測所

入江山高地観測所 入江山高地観測所

 何せ今からずっとずっと昔の明治時代に造られた施設なので老朽化もかなり進んでいるだろうと思いました。

 いつ崩れ落ちるかもしれないという不安を感じ無理して奥へ入る勇気はありませんでした。

 その代わり私の安物コンデジカメラでできる限りのズームを使って中の様子を撮ってきました。

入江山高地観測所 入江山高地観測所

入江山高地観測所 入江山高地観測所

 中の様子はこんな感じでした。

 何のための部屋なのか?さっぱり分かりませんでした。

入江山高地観測所 入江山高地観測所

入江山高地観測所 入江山高地観測所

 明治時代の後半期に造られて、ゆうに100年以上の長きにわたって風雪に晒され続けてきた遺構、それにしてはきれいな状態で残っている所も見受けられました。

 侵略攻撃等のために函館港に敵艦が侵入して来るのを、明治の軍人らが日々監視を続けていたのがこの入江山高地観測所だったわけです。

入江山高地観測所 入江山高地観測所

入江山高地観測所 入江山高地観測所

 今の貨幣に換算すると数十億円という高額な費用をかけて造られた函館要塞でしたが、実弾は一度も撃たれたことがなかったそうです。

 ここに要塞があるということだけで、攻めて来ようとしている外国軍への抑止力になっていたのでしょうか? 存在意義はあったようです。

入江山高地観測所 入江山高地観測所

入江山高地観測所 入江山高地観測所から

 「観測所」というだけあって御殿山第二砲台跡などと比べると、見晴らしはとても良かったです。

 今は展望台やテレビ局などのアンテナ群が設置されている函館山の最高峰・御殿山から函館港の眺望等が見えていました。

※ 函館市公式観光サイトはこぶら「函館山ロープウェイ」・「御殿山第二砲台跡」、フリー百科事典ウィキペディ「函館山ロープウェイ株式会社」・「函館山」・「函館山テレビ・FM放送所」・「函館要塞」・「津軽要塞」、一般財団法人 函館市住宅都市施設公社サイト「函館山緑地」を参考にさせて頂きました。

   ご訪問頂きありがとうございました。

 

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