『旅・徒然に』-榎本軍鷲ノ木上陸地跡-
こんにちは、ご訪問頂きありがとうございます。
今回は、「榎本軍鷲ノ木上陸地跡」(茅部郡森町鷲ノ木町161)を紹介します。
(訪問日:2022年(令和4年)5月中旬)
昨年(令和4年)5月中旬に3日間の休みがあり、週間天気予報によると「まずまずの好天が続きそう」とのことでしたので少し遠出取材の計画を立てました。
長い冬が去ってやっと春が来たので、山に行きたいと思ってはいましたが標高の高い山はまだ雪が残っている時期ですので私には無理です。
この時期では「雪が融けて夏道が出ていそうな山」は限られてきます。
雪は北海道の南から融けて行きますので、まずは道南地区でしょう。
春一番に登るので体がなまっていますから、いきなり標高の高い山は避けて足慣らし体慣らし程度の標高の山ということになります。
いろいろ考えたあげく、結論は「横津岳」でした。
横津岳登山の様子は、後日「登山日記」シリーズとして改めて紹介させて頂く予定で、今回は函館方面まで行った際に立ち寄ったいくつかの観光地を紹介していきたいと思いますのでよろしくお願い致します。
今回、函館方面へ向かうコースとして「札幌南区で国道230号線に入り、定山渓・中山峠・留寿都村・洞爺湖町・道道285号・道道97号線を通って「道の駅とようら」付近で太平洋沿岸を走る国道37号線に合流し、長万部町から国道5号線を海岸に沿って森町まで行きました。
三日間の休日を利用して道南まで行って帰ってくるという遠方まで取材に行く日程の時は、私的に少々きついので前日の勤務が終了次第一旦帰宅し荷物を車に積み込んでから出発し、途中の道の駅で車中泊(前泊)をして活動時間を稼ぐようにしています。
道の駅ルスツ230
今回の取材で前泊で車中泊しました「道の駅ルスツ230」(留寿都村字留寿都127-9)に着き、夜中なので外の様子は明日の早朝に探索することにしてとにかく寝ることにしました。
ここは以前にも休憩で立ち寄ったことはありましたが、トイレを利用させて頂く程度なのでどんなところなのかはよく知りませんでした。
翌朝早朝に起き出し洗顔・朝食を済ませた後、道の駅周辺の様子を見ようと車外に出ました。
さすがに平日の早朝なので停車している車も少なく道の駅内の店もまだ営業していませんでした。
すると、トイレ棟の隣りにある東屋で懐かしい方にお会いすることができました。
それは、「浪越徳次郎(なみこしとくじろう)氏の銅像」でした。
氏は、「指圧の心は母ごころ、押せば命の泉湧く」の名言で一世を風靡した方であります。
私が小中学生だった頃、朝のワイドショーなどのテレビ番組でこのフレーズを何回も聞いていました。
あの有名な女優のマリリンモンローさんやボクシング選手のモハメド・アリ氏、吉田茂氏他歴代総理大臣などにも指圧をしたそうです。
指圧師、実業家の他にも「タレント」として映画やテレビドラマ、アフタヌーンショーなどでも活躍された方でした。
でも、「なぜここ留寿都村に銅像があるの?」という疑問が残りましたので、帰宅後検索してみました。
生まれは香川県なのですが、6歳の時に一家でこの留寿都村に移住したそうです。
内浦湾(噴火湾)沿岸からの風景
太平洋沿岸を走る国道37号線(途中、国道230号線との重複区間があり)に合流し、秘境駅で一時大へん話題になっていた「小幌(こぼろ)駅」の上にある礼文華峠(れぶんげとうげ)や静狩峠(静狩峠)を通過して長万部町(おしゃまんべちょう)方面へ向かいました。
※ 以下の動画には風切音や機械音などの雑音が入っていますので、視聴に際しては音量に十分ご注意ください
ふと助手席の窓の方へ目をやると、噴火湾越しに「駒ヶ岳」(森町、鹿部町、七飯町にまたがる標高1131mの活火山)の姿が見えていることに気づきました。
ちょうど近くに漁港がありましたので、その駐車場に車を停めて防波堤などに上がったりして風景を眺めることにしました。
駒ヶ岳は、私が樽前山など近間の山から遠出して最初に登った山(2016年8月)になります。
2000(平成12)年9月から11月にかけて小噴火(噴煙高度2000m以上)が数回起き、2010年以来小康状態が続いています。
※ 以下の動画には風切音や機械音などの雑音が入っていますので、視聴に際しては音量に十分ご注意ください
2010年6月に馬の背(標高900m)付近までの入山規制が一部解除されました。
2011年に気象庁が噴火警戒レベル1の継続が発表され、以来山頂部の剣ヶ峯部分への登山が禁止されています。
よって、私が登った時も剣ヶ峯部分への登山が禁止されていましたので(自己責任?で登っている人達の姿も見られましたが…)私は登山初心者でもありましたので「無理はしない、止めておこう」ということで思いとどまりました。
倶知安町辺りまで来ると、晴れていて雲がかかっていなければ駒ヶ岳の姿もしっかりと見て取れましたのでとてもうれしかったです。
地球岬などからも天気によっては眺望できるといわれますが、私は何回かチャレンジしてみましたが海を隔てていて水蒸気が多いためなのでしょうか? いつも遠くが靄っていて山並みなのか雲の形なのか判別することができませんでした。
※ 以下の動画には風切音や機械音などの雑音が入っていますので、視聴に際しては音量に十分ご注意ください
このアングルの駒ヶ岳はなかなか見られなかったので、私にとっては感動もので何枚も何枚も激写してしまいました。
「何枚もしつこい、いい加減にして!」と思われるかもしれませんが、お許しください(マウスでクルクルッとスクロールして次に進んで下さい)。
榎本武揚上陸の地
国道5号線を森町市街地に向かう途中、湯ノ崎トンネルを出て300mほど進んだ辺りで二枚の道路標識が目に飛び込んできました。
一瞬のことで「ンッ! ここに何かあるの?」と思い、なぜか気になったので一旦車を停め引き返してからもう一度標識を確かめてみました。
すると、その二枚の道路標識には「榎本武揚上陸の地」(えのもとたけあきじょうりくのち)、「史跡公園鷲ノ木」(しせきこうえんわしのき)と書かれてありました。
『 榎本軍鷲ノ木上陸地跡 (説明板より)
明治元年(一八六八)旧十月二十日、噴火湾中央部の鷲ノ木村に榎本武揚(徳川旧臣)率いる艦隊が上陸しました。上陸時の鷲ノ木は、積雪三〇㎝、北西の強風で波は荒れ(タバ風)、暴風雪であったといわれる。
榎本艦隊は、旗艦開陽丸ほか七艦(回天かいてん、蟠龍ばんりゅう,長鯨ちょうけい、神速しんそく、鳳凰ほうおう、回春かいしゅん、大江たいこう)で、このときの人員は、榎本をはじめ松平太郎、大鳥圭介、土方歳三、古屋佐久左衛門ら二千人以上と言われ、上陸したのは主に陸兵でした。
当時の鷲ノ木村は戸数約一五〇、人口約八〇〇で茅部街道の要所でもあり、箱館への交通も開けていました。
二一日、人見勝太郎以下三十二名の先発隊が峠下村(現七飯町)で待ちかまえていた官軍と撃戦となり、箱館戦争へと展開していくことになります。
開戦とともに鷲ノ木村は榎本軍の後方陣地となり、高森台場(現東森)、石川原沢口台場(現富士見町)、湯ノ崎台場(現鷲ノ木)などが構築されました。
こうして、明治二年五月の箱館戦争終結までは負傷者や病人達の療養地となり、また戦死者は、霊鷲院に手厚く葬られました。
今も鷲ノ木の墓地には榎本軍戦死者たちが眠っており、史跡公園内には上陸記念碑や慰霊碑があります。
平成二十四年三月
森町教育委員会 』
1867(慶応3)年「大政奉還」が行われましたが、翌1868(明治元)年には政権掌握を狙う旧幕府軍勢力と幕府廃止と新体制確立を狙う新政府軍の間で「戊辰戦争」が始まりました。
1868年10月榎本武揚率いる旧幕府海軍は新選組土方歳三など2500名を収容し開陽丸など7隻の艦隊でこの森町鷲ノ木地区に上陸しました。
『 軍監並歩兵頭並・海陸裁判役
今井信郎 (説明板より)
1841(天保12)年、江戸本郷湯島天神下(現在の東京都文京区湯島)に生まれる。鳥羽・伏見の戦いで敗走後、古屋佐久左衛門に従い衝鋒隊を組織、仙台で旧幕府軍に加わる。坂本龍馬あんっさつに関わっていたとされ箱館戦争終了後に投獄、恩赦により放免され静岡県で勤めるようになる。 』
『 歩兵頭並・衝鋒隊第一大隊長
天野新太郎 (説明板より)
古屋佐久左衛門・永井蠖伸斎らと共に衝鋒隊として旧幕府軍に入る。箱館戦争では一個中隊を率いて鷲ノ木村に堡塁を築く。
道南各地で転戦していたが、1869(明治2)年6月9日(旧4月29日)の矢不来での戦闘において艦砲射撃の中戦死する。 』
その後、榎本武揚、土方歳三らは五稜郭を占領し松前・江差まで勝ち進み蝦夷地共和国を樹立しましたが、江差沖に停泊中だった主力軍艦の開陽丸が嵐に遭って座礁し沈没してしまいました。
『 軍監歩兵頭・衝鋒隊総長
古屋佐久左衛門 (説明板より)
1833(天保4)年、筑後国(現在の福岡県小郡市)の高松家の次男として生まれる。弟は高松凌雲。1868(明治元)年に衝鋒隊を編成後、仙台で旧幕府軍に加わる。衝鋒隊を指揮しながら各地を転戦していたが、最後の決戦に備え五稜郭で酒宴中に新政府軍の砲撃に遭い負傷、弟凌雲の治療を受けるも間もなく息を引き取る。 』
『 火を吹かなかった森町の砲台 (説明板より)
旧幕府軍の鷲ノ木上陸後、主力は全て箱館に移ったが、後方支援の拠点を霊鷲庵(現在の鷲ノ木史跡公園)に置き、傷病者の収容や噴火湾沿岸の警備を行っていた。1869(明治2)年2月(旧正月)中に新政府軍進撃の報を受けた旧幕府軍は古屋佐久左衛門率いる衝鋒隊に箱館背面の防御を命じた。
衝鋒隊は各地に兵を分け、古屋佐久左衛門が森村に砲台3箇所、永井蠖伸斎が砂原村に砲台3箇所をそれぞれ設置し、天野新太郎は鷲ノ木村に堡塁を2箇所築き、防御を固めて新政府軍の反撃に備えた。戦時中に新政府軍が森村や鷲ノ木村に襲来することはなく、この地が戦火にまみえることはなかった。 』
翌1869(明治2)年に新政府軍が乙部に上陸し旧幕府軍は追討されてしまいました。
箱館戦争で土方歳三は戦死し、榎本武揚は降伏して戊辰戦争は終結しました。
※ 以下の動画には風切音や機械音などの雑音が入っていますので、視聴に際しては音量に十分ご注意ください
道路から奥へ入って行くと正面に「鷲ノ木稲荷神社」があり、右手に「鷲ノ木史跡公園」の標示板が立っていて、その奥の会館の前に駐車場がありました。
鷲ノ木史跡公園の奥にはがあり、その手前の小道を海岸の方へと歩いて行きました。
『 榎本軍鷲ノ木上陸地
明治元年(一八六八)旧十月二十日、噴火湾中央部の鷲ノ木村に榎本武揚(徳川旧臣)率いる艦隊が上陸しました。上陸時の鷲ノ木は、積雪三〇㎝、北西の強風で波は荒れ(タバ風)、暴風雪であったといわれる。
榎本艦隊は、旗艦開陽丸ほか七艦(回天かいてん、蟠龍ばんりゅう,長鯨ちょうけい、神速しんそく、鳳凰ほうおう、回春かいしゅん、大江たいこう)で、このときの人員は、榎本をはじめ松平太郎、大鳥圭介、土方歳三、古屋佐久左衛門ら二千人以上と言われ、上陸したのは主に陸兵でした。
当時の鷲ノ木村は戸数約一五〇、人口約八〇〇で茅部街道の要所でもあり、箱館への交通も開けていました。
二一日、人見勝太郎以下三十二名の先発隊が峠下村(現七飯町)で待ちかまえていた官軍と撃戦となり、箱館戦争へと展開していくことになります。
開戦とともに鷲ノ木村は榎本軍の後方陣地となり、明治二年五月の箱館戦争終結まで、負傷者や病人達の療養地となり、また戦死者は霊鷲院に手厚く葬られました。
今も鷲ノ木の墓地には榎本軍戦死者たちが眠っており、史跡公園内には上陸記念碑や慰霊碑があります。
平成二十四年三月
森 町 』
※ 以下の動画には風切音や機械音などの雑音が入っていますので、視聴に際しては音量に十分ご注意ください
※ 以下の動画には風切音や機械音などの雑音が入っていますので、視聴に際しては音量に十分ご注意ください
さらに道は函館本線の線路に沿って続いていて、桂川が海へと流れ出ている河口付近に「榎本武揚・土方歳三上陸の地碑」がありました。
今ここに立って見ると、どこにでも在りそうな平凡な海岸風景ではありますが、時を遡ること155年程前に榎本武揚、土方歳三らを乗せた軍艦数隻がこの沖合に姿を現したわけであります。
その当時もこのような海岸の風景で、遠くの海上には駒ヶ岳の姿も見えていたのでしょうか。
記録によると、江戸時代の安政3(1856)年に大噴火が起きて「安政火口」ができたそうなので、もしかしてその頃は盛んに噴煙が立ち昇っていたのかもしれません。
※ ウィキペディアフリー百科事典「 駒ヶ岳」、森町ホームページ「榎本軍鷲ノ木上陸跡地」、森町観光協会サイト「鷲ノ木上陸地碑」を参考にさせて頂きました。
ご訪問頂きありがとうございました。
※青字部分をクリックすると、そのページが表示されます。
※これまで掲載した記事をご覧いただくには、「ホーム」ページの「インデックス」をご利用ください。