『旅・徒然に』-四稜郭-

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四稜郭  こんにちは、ご訪問頂きありがとうございます。

 今回は、「四稜郭」(函館市陣川町59)を紹介します。

       (訪問日:2022年(令和4年)5月中旬)

 函館市を代表するような観光地の「五稜郭」は大変有名ですが、「四稜郭」という史跡もあるということを知り早速訪問してみることにしました。

四稜郭 四稜郭

四稜郭の駐車場付近のようす 四稜郭の駐車場付近のようす

四稜郭の駐車場付近のようす 四稜郭の駐車場付近のようす

 1868(明治元)年に始まった箱館戦争時に「五稜郭」は、旧幕府軍に占領されてその本拠となり翌明治2年の「五稜郭開城」によって戦いは終結しました。

※ 五稜郭・・・江戸時代末期に江戸幕府が蝦夷地の箱館(現在の北海道函館市)郊外に築造した稜堡式の城郭

四稜郭         四稜郭

四稜郭 四稜郭

『   大鳥圭介訳「築城典刑」      (解説板より)

   四稜郭は、蝶が羽を広げたような四稜の突角を有する形からその名が付けられたもので、西洋式築城法に基づく砲台の形状からみて、設計者は蘭学に通じた大鳥圭介とする見方が多い。しかしながら、大鳥圭介訳本の「築城典刑」の中には、四稜郭に類似した洋式砲台の絵図は見られるものの、具体的なものは含まれてはいない。大鳥圭介が蘭学書をもとに四稜郭を設計した可能性は低いと推定される。     』

四稜郭解説板 四稜郭解説板

『   フランス軍事顧問団副団長       (解説板より)
   ジュール・ブリュネ
      Jules Brunet
      1838-1911

   1838年フランス・ベルフォール生まれ。1867(慶応3)年に政府の要請で、フランス軍事顧問団の副団長として来日し、幕府伝習隊の訓練を指導した。その後、1868(明治元)年10月に、カズヌーブ、マルラン、フォルタン、ブッフィエなどのフランス人下士官を共に旧幕府軍に加わり、箱館戦争に参戦した。箱館戦争では、海岸線防御や陣地の指導、陸軍の再編と訓練を行った。1869(明治2)年、旧幕府軍が敗北し、五稜郭明け渡しの直前にフランス軍艦で日本を離れ、フランスに帰還した。帰国後はフランス陸軍に復帰し、リヨン防衛軍司令官を最後に退官し、1911年に73歳で没した。     』

『  「フランス軍事顧問団と旧幕府軍脱走軍士官」  (解説板より)

前列左から二人目がJ.ブリュネ、同三人目は蝦夷地仮政権副総裁 松平太郎。後列には左からカズヌーブ、マルラン、一人おいてフォルタンらのフランス軍人が旧幕府軍脱走軍の士官とともに写る。     』

四稜郭解説板 四稜郭解説板

『  「フランス・ベルフォールの要塞」     (解説板より)

 ジュール・ブリュネの出身地フランス・ベルフォールは、「美しい要塞」との地名のとおり、典型的な様式要塞が存在する所であり、築城学を学ぶ最適な環境を持ち合わせていた。また、大鳥圭介はブリュネに対して「年令は若いが度量学築城学に長ぜり」と高く評価をしていることからみて、ブリュネが七重峠台場と四稜郭についての設計、築造指導を行っていた可能性が高いと推定される。     』

四稜郭解説板 四稜郭

『   史跡四稜郭の保存について     (解説板より)

 旧幕府脱走軍の降伏という形で箱館戦争が終結した後、四稜郭はかなり荒廃がすすんでいました。しかし、昭和九年に史跡に指定されて以来、地元の人たちをはじめ、市民の手厚い保護を受けて、今日までその原形を保つことができました。
 函館市では、この史跡保存に万全を期すため、昭和四十四年度から四十七年度にかけて、国・道の補助を受け、土塁の修復等の環境整備工事を実施したところですが、さらに平成二年度において、あずまや等の施設を設置し、この史跡を歴史学習や市民の憩いの場として、広く利用していただけるよう整備いたしました。
 この貴重な国民的財産である史跡を私たちの手で保存し、後世に伝え残していくために、次のことを守ってください。
一、土塁等に登らないこと
一、木の枝を折ったり、芝生をいためたりしないこと
一、自転車、バイク、自動車等を乗り入れないこと
一、火気を使用しないこと
一、ゴミは捨てないで持ち帰ること

               函館市教育委員会       』

※ 以下の動画には風切音や機械音などの雑音が入っていますので、視聴に際しては音量に十分ご注意ください。

四稜郭 四稜郭

四稜郭 四稜郭

四稜郭 四稜郭

 1868(明治元)年に五稜郭を占領した旧幕府脱走軍は新政府軍の攻撃に備えて各地に防御陣地を築きました。

※ 以下の動画には風切音や機械音などの雑音が入っていますので、視聴に際しては音量に十分ご注意ください。

四稜郭 四稜郭

四稜郭 四稜郭

四稜郭 四稜郭

 「四稜郭」は、五稜郭の鎮守である北海道東照宮を守るために五稜郭を一望できる緩斜面台地に様式の台場として急造されました。

 蝶が羽を広げたような形の堡塁で、東西約100m・南北約70mの範囲に幅5.4m・高さ約3mの土塁が巡り、その周囲には幅2.7m・深さ0.9mの空壕が掘られています。

※ 以下の動画には風切音や機械音などの雑音が入っていますので、視聴に際しては音量に十分ご注意ください。

四稜郭 四稜郭

四稜郭 四稜郭

『   史跡 四稜郭        (解説板より)
   昭和九年一月二十二日史跡指定

 明治二年(一八六九)春、五稜郭にたてこもる旧幕府脱走軍は新政府軍の攻撃に備えて各地に防御陣地を築いたが、五稜郭の背後を固めるため、その北方約三キロの緩斜面台地にも様式の台場を急造した。
これが四稜郭である。
 四稜郭は、蝶が羽を広げたようね形の稜堡で、周囲に土塁と空壕をめぐらし、郭内(面積約二、三〇〇平方メートル)には、四隅に砲座を設けたが、建物は造らなかった。
 なお、地元の言い伝えによると、旧幕府脱走軍は士卒約二〇〇名と付近の村民(赤川・神山・鍛冶村)約一〇〇名を動員して、昼夜兼行で数日のうちにこの四稜郭を完成させたといわれている。
 明治二年五月十一日、新政府軍は箱館総攻撃を開始した。
 同日未明、新政府軍の岡山藩・徳山藩の藩兵は赤川村を出発し、四稜郭の攻撃を開始した。松岡四郎次郎率いる旧幕府脱走軍は四稜郭の防御に努めたが、新政府軍には福山藩兵も加わり、さらに長州藩兵が四稜郭と五稜郭の間に位置する権現台場を占領したため、退路を断たれることを恐れた旧幕府脱走軍は五稜郭へと敗走した。
 五月十八日には、五稜郭が開城され、榎本武揚以下が降伏して箱館戦争は終わった。
                      函館市
                      文部省     

四稜郭      

※ 以下の動画には風切音や機械音などの雑音が入っていますので、視聴に際しては音量に十分ご注意ください。

四稜郭駐車場から 四稜郭駐車場から

 四稜郭駐車場からは、「函館山」やその麓に広がる街並みが見えていました

四稜郭駐車場から 四稜郭駐車場から

 その面積は約21,564㎡で、他に施設には無料駐車場・トイレ・あずまや・水飲み場があります。

 実際にその場に立って周囲を見回してみても規模が大きすぎて史跡の全貌がよく分かりませんが、函館市役所サイト「史跡四稜郭」を開きますと、上空からの写真が掲載されていますので興味をお持ちの方はご覧ください。

四稜郭駐車場から 四稜郭駐車場から

四稜郭駐車場から 四稜郭駐車場から

四稜郭駐車場から 四稜郭駐車場から

 四稜郭駐車場周辺の樹々の間から「五稜郭タワー」も見えていました。

※ ウィキペディアフリー百科事典「 箱館戦争」、「五稜郭」、函館市役所サイト「史跡四稜郭」を参考にさせて頂きました。

 ご訪問頂きありがとうございました。

 

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