『北海道開拓の村』-旧有島家住宅-
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今回は,「 旧有島家住宅」を紹介します。
この旧有島家住宅は、明治43年(1910年)5月から翌明治44年(1911年)7月頃まで住み、上げ下げ窓等の洋風意匠を取り入れた建物です。
元は札幌市白石区菊水にあったものを開拓の村に移築したものです。
旧有島家住宅(7)
「日本近代文学史上の代表的作家の1人である有島武郎 [明治11年(1878)~大正12年(1923)] が明治43年(1910)5月から翌年7月頃まで住んだ建物である。
一般の住宅にも、上げ下げ窓などの洋風意匠を取り入れ始めた頃の建物である。」(標示板の説明より)
旧有島家住宅
「有島武郎の作品「生まれ出づる悩み」の中に、豊平川右岸の、1町歩ほどもある大きなリンゴ園のなかにあった借家とあるが、この家である。
当時有島は、母校の東北帝国大学農科大学(札幌農学校の後身、現在の北海道大学)の英語講師で、働く若い人達のための遠友夜学校の代表者でもあった。
この家で有島は「或る女のグリムプス」を書き、雑誌「白樺」に連載を開始した。」(標示板の説明より)
有島武郎(ありしまたけお)氏の略年譜を簡単に紹介します。
・明治11年(1878年):東京にて生まれる。
・明治41年(1908年):東北帝国大学農科大学予科の英語教師として札幌に赴任する。
・明治42年(1909年):遠友夜学校(昼間働く人のための夜学校)校長に就任、また神尾安子と結婚する。
・明治43年(1910年):雑誌「白樺」同人になる。作品「老船長の幻覚」
・大正3年(1914年):妻安子病気のため東京に転居する。
・大正5年(1916年):妻安子死去する。
・大正6年(1917年):農科大学退職。作家としての地位が確立する。作品「カインの末裔」、他
・大正9年(1020年):作品「小さき者へ」、「生れ出づる悩み」、「或る女」、「一房の葡萄(ぶどう)」、他
・大正12年(1023年):軽井沢の別荘「浄月奄」にて死去。
私が初めて「有島武郎」氏を知ったのは、記憶に間違いがなければ教科書(中学校のだったか高校のだったかは忘れました)に載っていた「生れ出づる悩み」だったように思います。
道徳の「読本」のようなものにも「一房の葡萄」が載っていたように記憶しています。
教科書の作品をきっかけに興味を持ち、氏の他の作品も図書館から借りてきては読んだのを覚えています。
北海道に縁のある方だとは知っていましたが、氏が住んでいた住宅が札幌市の白石区菊水にあったなんて知りませんでした。
「有島武郎旧邸」として、もう1軒札幌にあります。
札幌永住を決めた氏は、大正2年(1913年)に自ら設計した木造2階建ての洋風の家を現在の地下鉄南北線北12条駅近くに新築しました。
ところが、翌大正3年(1914年)妻安子が病気を発症しその療養のために東京へ移転しました。
その後、その建物は北大職員の寮などとして使われていましたが、昭和61年(1986年)に「札幌芸術の森」(札幌市南区)に移築されました。
「腰折れ屋根」や「窓枠の外観」などに特徴のある建物で、洋風ですが畳敷きの部屋もある和洋折衷建築です。
氏の様々な資料を展示しているほか、カフェコーナーもあり芸術の森見学の際の休憩スポットとしても利用できます。
尚、「有島武郎旧邸」については、また機会を改めて紹介したいと思っています。
※ ウィキペディアフリー百科事典「有島武郎」、「旧有島家住宅 」、「有島武郎旧邸」、「北海道開拓の村ホームページ」等を参考にさせて頂きました。
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