『道北の旅Ⅱ』-利尻島から稚内へ-
こんにちは、ご訪問頂きありがとうございます。
今回では「利尻島から稚内へ」と題して利尻島を後にして稚内へ帰る様子を紹介します。
(訪問日:2019年(令和元年)7月下旬)
礼文島を後にして
前回の最後に一連の計画の中に礼文岳登山も予定していたので、その登山口の確認のために香深港への帰り道で立ち寄ってみました。
礼文岳は標高490mでな内路(ないろ)登山口から登り、目安として頂上までは約2時間、下山に約1時間の往復3時間ほどかかるそうです。
途中に「第一見晴台」があり、そこから「にせ頂上」と呼ばれる所があり、さらにその上に山頂があります。
この日は利尻島へ戻るフェリーの出発時刻も迫っていましたので登山はできませんでした。
フェリーターミナルの有料パソコンで翌日以降の天気予報を確認したところ、利尻島・礼文島周辺の天気は曇りから雨への下り坂のようで晴天の見込みはないことが分かりました。
礼文島の北海道道線沿いにある大まかな観光地はこの二日間で見て歩くことができ、残るは礼文岳登山だけでありました。
この日も礼文島上空や礼文岳山頂付近に雲が垂れこめている状況でしたので、この後数日間は登山を強行しても思うような眺望は望めないだろうと思いました。
利尻島へ戻るフェリーの中で今後の予定を考えてみましたが、めぼしい観光地はもう見て回っていましたし、礼文岳登山もここ数日間は停滞するしかないということから、翌日朝一のフェリーに乗って稚内に戻ることにしました。
鴛泊港から稚内港へ
鴛泊港近くの駐車場で一泊した私は、朝一番の稚内行きフェリーに乗船しました。
あるテレビ番組でも紹介されたそうですが、香深港で見られる風景「桃岩荘名物のお見送りの儀式」がありました。
※ 以下の動画には風切音や機械音など雑音が入っていますので、視聴に際しては音量にご注意ください。
その時はそんな儀式が行われているということを私は知りませんでしたので、「何やらたくさんの人たちが集まって賑やかにしているな~、何かのお祭りかな…?」ぐらいにしか思っていませんでした。
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帰宅してからネットで検索してみて、あれが「桃岩荘名物のお見送りの儀式」であったことが分かりました。
「再び利尻島に海を渡って来ることは多分ないだろうな…、でも利尻山にはもう一度登って雲のない晴れ渡った山頂から景色を眺めてみたいな…」等と思いながら、来る時と同様にフェリーの甲板の上で稚内港に着くまでずっと海を眺めていました。
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わずか数日前にフェリーに乗船し利尻島に向けて出発した稚内港にまた戻ってきてしまいました。
稚内港に入港したフェリーの上から港の様子を眺めていると、右手には停泊している巡視船の大きな船体があり、その後ろには変わった形をした「北防波堤ドーム」が見えていました。
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稚内港を出発する時には利尻島や礼文島そしてその海上の方ばかりしか目に入らなかったようで、改めて稚内港に入ってくると巡視船や北防波堤ドーム、高台の上に見えている塔などの姿が物珍しく見えていました。
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稚内公園
以前に道北方面の旅(「宗谷岬へ」-稚内市・その2-)で稚内市等を訪れた際には、野寒布岬(のしゃっぷみさき)から宗谷岬、その高台にある宗谷岬公園などを見学しましたが、時間的に余裕がなくて稚内公園に立ち寄ることができませんでした。
6泊7日の道北の旅Ⅱの最終日は、稚内市内にある「稚内公園」で締めくくることにしました。
↑ これは「測量の碑」です。日時計のようにも見えないこともないですが、世界の都市の方角と距離等が書かれていました。
面積約45.2haの稚内公園は稚内市ヤムワッカナイにあり、公園内には「樺太島民慰霊碑」(「氷雪の門」)をはじめとするたくさんのモニュメント、展望施設と郷土資料館が一緒になった「開基百年記念塔」、「南極観測樺太犬訓練記念碑」、「九人の乙女の像」等があります。
※ 以下の動画には風切音や機械音など雑音が入っていますので、視聴に際しては音量にご注意ください。
●南極観測樺太犬訓練記念碑及び樺太犬慰霊塔
1957(昭和32)年に日本が初めて南極観測に参加するに当たり、南極での物資輸送にイヌぞりを使うために樺太犬が集められて稚内公園で厳しい訓練が行われました。
集められた樺太犬の中から22頭が選び抜かれ南極観測船「宗谷」で南極大陸に渡り、その任務をまっとうしました。
『 南極観測樺太犬訓練記念碑 (説明板より)
1956(昭和31)年、日本が初めて南極観測に参加する時、40頭ほどの樺太犬が集められ、ここ稚内で8ヶ月間にわたり犬ぞりの訓練が行われました。犬ぞり隊は、ブリザード荒れ狂う極地で見事な活躍をはたしましたが、交代するはずの第2次越冬隊が悪天候のため上陸できず、結局15頭の犬だけが無人の南極大陸に取り残されることとなりました。そして1年後、タロとジロの兄弟犬の奇跡的な生存が確認され、このニュースは感動とともに世界中に伝えられ、後に映画『南極物語』にもなりました。この碑は、ここ稚内公園が犬ぞりの訓練地だったことを記念し、樺太犬の功績を讃えて建てられたものです。 』
南極の悪天候に阻まれて15頭が現地に置き去りにされて死ぬという悲劇が起きてしましました。
1959(昭和34)年に第3次越冬隊が南極に着くと、奇跡的に「タロ、ジロ」が生きていたことを確認しました。
『 南極観測樺太犬訓練記念碑 (説明板より)
昭和32年、国際地球観測年を機に、日本が初めて南極観測に参加するにあたって、極地での物資輸送を目的に"犬ぞり隊"が編成されました。
この"犬ぞり隊"の主役が、稚内周辺から集められた樺太犬たちです。
南極へ出発する前に"犬ぞり隊"は稚内公園で8ヶ月間、厳しい訓練を受け、その中から選び抜かれた22頭の樺太犬は、何教区観測船『宗谷』で白い大陸に渡り、任務をまっとうしました。
しかし、南極の悪天候を克服できず、樺太犬15頭が現地に置き去りにされて死ぬという悲劇を被りました。そして、昭和34年1月、第3次越冬隊がたタロ・ジロの奇跡的な生存を確認し、当時世界の人々を感動させたことは今日でもよく知られています。 』
『 樺太犬供養塔 (説明板より)
白い南極の大陸で命を落とした15頭の"犬ぞり隊"の霊を慰めるための慰霊碑で、稚内公園の犬ぞり訓練所跡地に、昭和36年10月、建立されたものです。観測隊がケルンをつくり、それを道標として節減を前進したことから、慰霊碑は、三角のケルンに秩父硬石が張りめぐらされています。 』
南極大陸で命を落とした15頭の「犬ぞり隊」の霊を慰めるための慰霊碑で、1961(昭和36)年に建立されました。
観測隊がケルン(石を積み上げたもの)を造り、それを道標にして南極の雪原を前進したことから、慰霊碑は三角のケルンの形としたそうです。
稚内市は毎年8月上旬に、この慰霊碑の前で「慰霊祭」を行なっています。
●樺太島民慰霊碑(氷雪の門)
樺太島民慰霊碑(氷雪の門)は、かつて日本領土でした樺太で亡くなられた日本人のための慰霊碑です。
1963(昭和38)年に本郷新氏の彫刻により地元の樺太関係者の手で建立されました。
両側に高さ8mの門(望郷の門)、中央に2.4mの女性の像があります。
女性の顔は戦争で受けた苦しみを、手のひらを見せているのは樺太も家族も失ったこと、足はその悲しみや苦しさから早く立ち上がることを表しているそうです。
『 氷雪の門 (説明板より)
日本領だった南樺太(現・サハリン島)には、終戦当時、約42万人の日本人が生活していましたが、ソ連軍の突然の進撃により人々は全てを捨て祖国へと逃げ帰ることとなりました。
この時は、帰らぬ樺太への望郷の念と、樺太で亡くなった人たちの慰霊のため1963(昭和38)年に建てられたものです。高さ8mの門、黒大理石の台座、2.4mの女性像からなり、女性が手のひらを見せ天を仰ぐ姿は全てを失った悲しみを表し、人々の天への祈り、哀訴、そしてたくましい再生への誓いを表現しています。お天気が良い日には、像の背景に広がる宗谷海峡の向こうに、かつて人々が生活していた樺太が見えます。 』
『 氷 雪 の 門 (説明板より)
人々はこの地から樺太に渡り樺太からここに帰った
戦後はその門もかたく鎖された。
それから十八年望郷の念止みがたく
樺太で亡くなった多くの同胞の霊を慰めるべく肉眼で樺太の見えるゆかりの地の丘に木原豊次郎氏 笹井安一氏の熱意と全国樺太引揚連盟の賛同並びに全国からの心あたゝまる協力によってこゝに記念碑を造る
氷と雪の中できびしく生き抜いた人々を象徴する女人像、望郷の門、霊石を三位一体とする 彫刻家
本郷新先生の力作がこゝに出来上った
この記念碑を氷雪の門と命名した
昭和三十八年八月十五日
稚内市長 浜 森 辰 雄 』
●九人の乙女の像
九人の乙女の像は、1945(昭和20)年8月20日に樺太真岡郡真岡町の真岡郵便局で自決した9人の電話交換手の慰霊碑です。
同年同日、ソ連軍の侵攻が始まり真岡郵便電信局で連絡業務のために残っていた電話交換手の女性のうち9人が毒薬などを用いて自決しました。
9名は公務殉職として1973(昭和48)年に勲八等宝冠章を受勲し、靖国神社にも合祀されているそうです。
地元の樺太関係者と遺族の手によって氷雪の門と九人の乙女の像が建立され、ともに1963(昭和38)年に除幕されました。
『 碑 文
闘いは終った。それから五日後昭和二十年発月二十日、ソ連軍が樺太真岡上陸を開始しようとした。その時突如日本軍との間に戦いが始った。
戦火とかした真岡の町、その中で交換台に向った九人の乙女等は死を以って己の職場を守った。
窓越しに見る砲弾のさく烈、刻々迫る身の危険、今はこれまでと死の交換台に向い「皆さんこれが最後です さようなら さようなら」の言葉を残して静かに青酸苛里をのみ、夢多き若き尊き花の命を絶ち職に殉じた。
戦争は再びくりかへすまじ、平和の祈りをこめて尊き九人の乙女の霊を慰む
昭和三十八年八月十五日
稚内市長 浜 森 辰 雄
寄贈 東京都 本 郷 新
札幌市 上 田 佑 子 』
『 九人の乙女の碑 (説明板より)
この碑は、終戦時、樺太の真岡(現・ホルムスク)郵便局で通信業務を死守しようとした9人の女性の慰霊のために建てられたものです。北緯50度線でソ連と国境に接していた樺太では、1945(昭和20)年8月、ソ連軍の不意の攻撃を受け40年間にわたる国境の静寂が破られました。島民の緊急疎開が開始される中、戦火は真岡の町にも広がり、窓越しに見る砲弾の炸裂、刻々と迫る身の危険の中、真岡郵便局の電話交換手は最後まで交換台に向かいましたが、「皆さんこれが最後です。さようなら、さようなら…」の言葉を残し、青酸カリを飲み自らの命を絶ちました。終戦5日後、8月20日のことでした。 』
●昭和天皇行幸啓記念碑
前述の「九人の乙女の像」の傍に、「昭和天皇・香淳皇后の和歌の碑」があります。
1968(昭和43)年に開基百年記念式典にご臨席された折に、稚内市に来られ「九人の乙女の像」の前で当時の市長より九人の乙女の悲話をお聞きになりました。
その際に、両陛下は目頭に涙を浮かべられ深く頭をお下げになり九人の乙女の冥福をお祈りされたそうです。
『 行幸啓記念碑 (説明板より)
1968(昭和43)年、この公園においでになられた昭和天皇・皇后両陛下は、九人の乙女の悲話をお聞きになった時、目頭に涙を浮かべ、深く頭をお下げになり、冥福をお祈りされました。この碑には、後日、この時のご感銘を詠まれた御製・御歌が刻まれています。 』
後日、この時のご感銘を詠まれた和歌の碑です。
『 碑文 (碑文より)
御製(天皇)
樺太に命を捨てし たおやめの 心思えば胸 せまりくる
御歌(皇后)
樺太につゆと消えたる 乙女らの みたまやすかれと ただいのりぬる 』
●教学の碑
樺太師範学校は、かつて樺太豊原市(現・ユジノサハリンスク)にあった小学校教員を養成する師範学校でした。
1938(昭和13)年4月に「樺太庁師範学校」が設置され、翌1939(昭和14)年に開校(修業年限2年、1学年定員120名)されました。
1943(昭和18)年に樺太庁諸学校官制の改正により「樺太師範学校」(男子部・女子部)になりました。
1945(昭和20)年4月に文部省に移管されましたが、同年8月にソ連軍の侵攻により学校は教育活動を停止しました。
『 教 学 の 碑 (建立誌より)
建 立 誌
我が母校、樺太師範学校は昭和十四年四月、四十五万島民の文化の向上と教育振興の重責を担う教員養成機関として、豊原市に開校したが、男女共学という専門学校教育の実施は我が国最初の画期的な試みで、上田光曦校長(純煌)の卓越した教育理念によるものであった。
爾来、至誠一貫を本義とする教学綱要のもと品格の洗練、知性の向上、情操の醇化・体軀の鍛錬に励み、樺太開拓に貢献する教育社としての資質の琢磨錬成に努め、師弟一如の人間性豊かな校風を築き樺太師範学校の盛名を高めつつあったが、昭和二十年終戦により、その歴史を閉じることとなった。
然し、樺太師範学校の教育精神は同窓生の教育実践に生かされ、戦後、我が国の復興と平和文化国家建設に大きな役割を果たすと共に、多くの教え子に継承されている。母校は既にないが教学の精神と共に我々の胸中に厳然として存続している。茲に全国に居住する同窓生九百余名開校五十周年を記念し、樺太島を望むこの地に母校永遠に不滅なりの思いをこめて、郷土樺太の石を台座に嵌め込み教学の碑を建立する。
平成元年七月八日
樺太師範学校同窓会 』
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●北方植物園
北方植物園は、開基百年記念塔の傍にある施設で、入園無料で出入り自由となっています。
園内十数か所の花壇200種の高山植物や山野草が植えられています。
標高の高いヒマラヤ地方で咲く花を集めた花壇、高山植物の女王と呼ばれているコマクサが植えられた花壇などに、花の季節ともなると日を追うごとに多くの花が咲き出すそうです。
●文芸の小径
稚内市民や稚内に縁のある人物の俳句、短歌、川柳の句碑が並んでいました。
道の脇に俳句などが書かれた碑がたくさん並んでいて、全てを見て行こうとすると結構時間がかかりそうでした。
↑ 本間蕪石の句碑ですが、しばらく眺めていましたが達筆すぎて所々しか読めませんでした。
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●開基百年記念塔(展望施設・郷土資料館)
開基百年記念塔は、稚内市の開基100年目にあたる1978(昭和53)年に稚内公園に建設(地上80m、海抜250mの建物)され、その1~2階部分が「稚内市北方記念館」です。
稚内市、樺太などの郷土資料や間宮林蔵の足跡をたどる資料、アイヌ民族に関する資料などが展示されています。
地上70m、海抜240mにある展望室からは利尻・礼文両島が、条件の良い日には樺太までも見渡すことができるそうです。
※ 間宮林蔵・・・江戸時代後期の徳川将軍家御庭番、探検家で、樺太が島であることを確認し間宮海峡を発見しました。
『 北 前 船 (説明板より)
北前船は、江戸中期~明治中期にかけて、日本海沿岸の各港を拠点とし瀬戸内海、京都、大阪の各地方と蝦夷地を往復した和船のことです。形としては、横風や逆風でも帆走可能な一枚帆を使った弁財船がよく知られています。この北前船は、廻船業や蝦夷地の経営を行なったことでも知られる高田屋嘉兵衛の船、「貞宝丸」(1400石積)をかたどったものです。
北前船は3月末~初旬に大阪を出発し、途中、瀬戸内海や日本海の各地に寄港しながら、5月下旬には蝦夷地に渡ります。ニシン漁場の北上に合わせ、松前・江差・小樽をはじめ北は宗谷などまで船を進めたといわれています。 』
↑ 展望室の窓越しに昨日まで間近に見ていた利尻山の姿が夕暮れ時の空の向こうに見えていたので、感激してまた激写してしまいました。たくさん撮ったのですが、辟易されてしまいそうに思ったので数枚を載せました。
※ 以下の動画には風切音や機械音など雑音が入っていますので、視聴に際しては音量にご注意ください。
↑ 雲の間から夕日が覗き空がオレンジ入りに染まり始めました、やはりここでもパチリ!パチリ!しました。
↑ 「大型の犬…?」と思いきや「オオカミでした!」(上画像右)
↑ この方が「間宮海峡」を発見された間宮林蔵氏です(上画像右)
『 蝦夷地実用ストーブ(カッヘル) (説明板より)
1856年(安政3年)、宗谷に赴任した梨本弥五郎は、景蔵という名のアイヌにストーブを造らせました。箱館奉行の許可を得て、赴任前に箱館で製作を依頼したストーブ「カッヘル」が、冬までに間に合わないことがわかったからでした。
日本初の西洋式ストーブとして箱館で完成したストーブは鋳物でしたが、鋳鉄が手に入らない宗谷では鍛鉄で造りました。その結果、重さが約53㎏(14實300匁)と鋳鉄製よりはるかに軽く、耐久力があり、価格も3分の1で仕上がりました。
完成した第1号は、お産を控えた大塚良輔の役宅で「蝦夷地実用ストーブ」として赤々と燃え、煙をあげました。その後も現地で生産され、各地に配備されたと記録に残されています。
この復元「カッヘル」は「稚内歴史・まち研究会」が鋳物製ストーブの設計図を参考に、宗谷では、素材が手造りの鍛鉄に変わったことを考慮検討して復元したものです。 』
↑ 「戦時債券証書」というものだそうです(上の画像左)。記念塔内を見学しているうちに、すっかり陽が暮れてしまいました、外に出るとライトアップされている姿も見られてよかったです(上の画像右)。
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尚、この「道北の旅Ⅱ」シリーズは今回で終了いたします、ありがとうございました。
ご訪問頂きありがとうございました。
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