『道南の旅』-松前藩屋敷-

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松前藩屋敷表門   こんにちは、ご訪問頂きありがとうございます。

    今回は、「松前藩屋敷:松前町」(松前郡松前町字松城303)を紹介します。

(訪問日:2019年(令和元年)7月下旬)

 光善寺で血脈桜などを見学した後、私は「松前藩屋敷」へ向かいました。

 「松前の春は江戸にもない!」と言われたように、松前の江戸時代は北前船などで全国と交易し様々な文化や物資が集まり、江戸をも上回るほどの賑わいだったようです。

 その江戸時代の松前を再現したテーマパークがここ「松前藩屋敷」です。

松前藩屋敷へ 松前藩屋敷へ

松前藩屋敷 松前藩屋敷

松前藩屋敷案内板 松前藩屋敷案内板

松前藩屋敷案内板

 松前藩屋敷表門

↑ 松前藩屋敷表門前にある松前藩筆頭家老「松前勘解由」についての説明板(画像左)

『    みなみ北海道
      最後の武士達の物語         (説明板より)

   ペリー提督の要求をことごとくかわした交渉人

松前藩筆頭家老   松前 勘解由 (まつまえ かげゆ)

 アメリカのペリー提督らが箱館に来航した際、松前藩の主席応接使を勤めた。ペリー提督からの数々の要求に対し、幕府から指示を受けていないこと、松前藩の三で決定できないため瀑布の決済を受けていないこと、松前藩のみで決定できないため幕府の決済を仰ぐより方法が無いと回答し、要求をはねのけた。応接の際の態度とともに、のらりくらりとした回答は「コンニャク問答」として諸大名間で有名になった。
 幕末、松前藩内では、佐幕派重臣らを弾劾して藩政一新を図ろうとする若手下級藩士らのグループ「正義隊」が結成された。1868(慶応4)年には正義隊のクーデターにより、佐幕派重臣たちは処断され、勘解由も自宅で自刃した。
 クーデター成功により松前藩は勤皇派となり、新政府側として箱館戦争を迎える。

 蠣崎廣年(波響)の子である廣伴の次男として生まれる。名を崇效。松前廣重の養子となり、勘解由を名乗る。1853(嘉永6)年に家老格に昇進し、1854(安政元)年のペリー艦隊による箱館来航の際は主席応接使に抜擢され、大役を勤め上げた。1868(慶応4)年の正義隊クーデターにより失脚、自宅にて自刃を遂げる。

   松前家十七世(第十三代松前藩主)
    従四位下伊豆守

     松前 崇廣(まつまえ たかひろ)

 1829(文政12)年に江戸で生まれ、1840(嘉永2)年に21歳で松前家17世(第13代藩主)となる。箱館戦争の戦場となる福山城を1854(安政元)年に築く。外様大名ながら幕府の陸海軍総奉行に任じられるも、兵庫開港を独断したとの罪により官位剥奪となり、松前での謹慎中の1866(慶応2)年、熱病を患って死去。享年38歳。     』

松前藩屋敷説明板 松前藩屋敷説明板

↑ 松前藩屋敷表門前にある松前藩筆頭家老「松前 崇廣」についての説明板(画像右)

『    松前家十八世(第十四代松前藩主)、
      従五位下志摩守            (説明板より)

       松前 徳廣(まつまえ のりひろ)

 1844(弘化元)年に松前家16世(第12代松前藩主)昌廣の長男として生まれる。1866(慶応2)年に22歳で家督を相続し、松前家18世(第14第松前藩主)となる。病弱で政務困難であったが、勤皇派藩士のクーデター後も藩主として祭り上げられた。箱館戦争の戦況悪化により弘前城下へ落ちのびるも、肺結核で死去(表向きは自刃)。     』

松前藩屋敷説明板 松前藩屋敷顔はめ看板

『   松前藩屋敷       (説明板より)

 北海道唯一の城下町松前は、幕末時に六千人余りの人口を有し、近江商人や北前船により、日本海沿岸から瀬戸内地方に及ぶ港間で盛んに交易が行われ、昆布や鯡などの蝦夷産物が移出され、本州からの米や味噌、嗜好品などの物資とともに、方言や食文化なども移入され、大いに栄えました。
 しかし、箱館戦争で城下の三分の二を消失してしまい、廃藩後は士族や商人が離散し、更に幾度の火災によって古い町並みの多くは失われてしまいました。
 そこで松前の歴史を今に語り継ぐため、活気溢れる往時の特色ある建物十四棟を再現し、平成三年に当施設を整備しました。     

   沖之口奉行所

沖之口奉行所 沖之口奉行所

沖之口奉行所 沖之口奉行所

『   松前藩沖之口奉行所(まつまえはんおきのくちぶぎょうしょ) (説明板より)

 松前藩の蝦夷地へ出入りする船改め、荷積、出入人を改め、税役を撤収する役所で、奉行、吟味役、吟味下役、小使、足軽、手代等の役人が配置されていた。
 白州では、入国者を裸にして調べ刀傷のある者、入墨のある者、身元引受人のない者の入国を許さず、次に本州へ出帆する船に乗せて帰した。
 荷積改めと税役の徴収は問屋、小宿に、遭難船の救助は附船宿に任せ、奉行所はこれを監視するだけてあったが、商人達からは役人に多くの太義料、袂銭の献金があったといわれている。   』

沖之口奉行所 沖之口奉行所

沖之口奉行所 沖之口奉行所

 蝦夷地(江戸時代に「北海道」をそう呼びました)へ入って来る船や人、物資などの出入りを管理し徴税をしていた役所です。

 不正な出入りを厳しく取り締まり、違反した者は本州へ戻されてしまったようです。

沖之口奉行所 沖之口奉行所

沖之口奉行所 沖之口奉行所

 内部には強面のお奉行様と二名の役人の人形などが置かれて当時の様子をしっかり再現されていましたが、画像の中には何やら球場のバックネット席のように「網目」のような物が見えています。

 真にそれは、カラス除けのために本物の「網」が部屋の手前に張ってありました。

   商家・近江屋

商家・近江屋 商家・近江屋

商家・近江屋 商家・近江屋説明板

『   商家(しょうか)     (説明板より)

 松前の商家は、近江や北陸地方出身の商人が多く、彼らは様々な商品を北前船(弁財船)に積んで来て販売した。
 取扱う商品としては大坂、敦賀、三国湊、橋立、輪島、七尾、新潟、佐渡、酒田、秋田、津軽など、日本海沿岸の産物が多く、呉服、米穀、太物(綿織物などの太い糸の織物)、調味料から俵筵、縄、竹細工、漆器、銅釜、瀬戸物、鉄器類、漁網、薬品などが挙げられる。
 また、これらの店舗を張る商人のなかには場所請負人となって、巨万の富を築く者もいた。   』

商家・近江屋 『   商家(しょうか)     (説明板より)  松前の商家は、近江や北陸地方出身の商人が多く、彼らは様々な商品を北前船(弁財船)に積んで来て販売した。  取扱う商品としては大坂、敦賀、三国湊、橋立、輪島、七尾、新潟、佐渡、酒田、秋田、津軽など、日本海沿岸の産物が多く、呉服、米穀、太物(綿織物などの太い糸の織物)、調味料から俵筵、縄、竹細工、漆器、銅釜、瀬戸物、鉄器類、漁網、薬品などが挙げられる。  また、これらの店舗を張る商人のなかには場所請負人となって、巨万の富を築く者もいた。   』

商家・近江屋 商家・近江屋

 江戸時代の松前には、近江商人(近江国;現・滋賀県、東海道や中山道、北国街道などが貫く交通の要衝)や北陸地方の商人が多く住み店舗を持ち商売繁盛していたようです。

商家・近江屋 商家・近江屋

商家・近江屋 商家・近江屋

 商家・近江屋の建物の隣りに土蔵が繋がって設けられていましたが、その中はお土産品などが置かれている売店となっていました。

商家・近江屋土蔵 商家・近江屋土蔵

商家・近江屋土蔵 商家・近江屋土蔵

   髪   結

髪結 髪結

※ 以下の動画には、風切音などの雑音が入っていますので、視聴に際しましては音量に十分ご注意下さい。

髪結 髪結

髪結 髪結

『   髪結(かみゆい)     (説明板より)

 近世の時代、男は必ず髪を結い、女性の多くは島田髪を結った。
 髪の場合、月代を剃った上、髪を鬢付で固め髷に仕立てた。
 このような作業はなかなか個人ではできないので髪結に行き、男の月代剃や髷結いは男性の床屋が行い、女性の髪結は女性が結った。
 店には待合室があり、待合の時間に将棋を指したり、四方山話をする社交場でもあった。   』

髪結 髪結

髪結 髪結

髪結 髪結

   旅籠・越後屋

旅籠・越後屋 旅籠・越後屋

旅籠・越後屋 旅籠・越後屋

旅籠・越後屋 旅籠・越後屋

 旅籠(はたご)・越後屋、旅籠とは「旅館」のことです。

 二階建ての建物で、入口にある暖簾をくぐると「帳場」(今のホテルでいうと、「フロント」でしょうか…)があります。

旅籠・越後屋 旅籠・越後屋

旅籠・越後屋 旅籠・越後屋

旅籠・越後屋 旅籠・越後屋

 二階は客室になっていて畳が敷かれていました。

 当時は、女将(おかみ)や板前(板前;料理人)、仲居(なかい:客のお世話をする女性)、丁稚(でっち;年季奉公する年少者)など多くの人が働いていましたので、もっと広い建物だったようです。

旅籠・越後屋 旅籠・越後屋 

旅籠・越後屋 旅籠・越後屋

旅籠・越後屋 旅籠・越後屋

『   旅籠(はたご)     (説明板より)

 今でいう旅館のことで、旅旅籠、宿屋とも呼ばれ、旅人の宿泊所であった。
 この建物は、主に表入口と帳場を再現したもので、これに二つの客室のみを付しているが、本来はこれに多くの客室が続いていた。
 旅籠には主人、女将、調理人(板前)、仲居、女中、丁稚等の多くの従業員がいた。
 宿泊者は宿帳に生国、住所、氏名、年令、職業、旅行の目的を記入することが義務付けられていた。このほか旅籠は人馬継立て等の斡旋もしていた。   』

旅籠・越後屋 旅籠・越後屋

 旅籠・越後屋

旅籠・越後屋 旅籠・越後屋

↑ 二階が客間になっていました。

旅籠・越後屋 旅籠・越後屋

↑ 二階の客間の窓から見えた周囲の様子です。

※ 以下の動画には、風切音などの雑音が入っていますので、視聴に際しましては音量に十分ご注意下さい。

   民   家

民家・井戸 民家・井戸

↑ 民家の傍には井戸がありました。その周辺に女性達が集まり賑やかに「井戸端会議」が繰り広げられていたことでしょう。

民家 民家

民家 民家

民家 民家

↑ 民家の中へ入ってみると、思っていたよりも「広い!」と感じました。「流し」には水道の蛇口などある訳もなく、横には井戸水を溜めておくための「水瓶(みずがめ)」がありました。

民家 民家

民家 民家・説明板

『   民家(みんか)     (説明板より)

 庶民の生活は、せいぜい居間と寝室の二間程度の棟割長屋の居住者が多かった。
 屋内は、入った土間には流し、水甕、へっついを置き、居間は炉端を中心として戸棚、食卓を配し、奥の間は家人の寝室で仏壇、神棚が備えられていた。
 屋根は長柾葺に石を置いた石置屋根である。この長屋の奥には井戸があり、女性たちが洗濯物をしたり、食器を洗ったりして世間話をする社交の場であった。   』

   漁   家

 蝦夷地ではニシンが第一の生産物で、3月から5月まで操業していたようです。

 その1漁期で30両もの利益があったということですので、蝦夷地の漁師は豊かだったようです。

漁家 漁家

漁家 漁家

↑ 漁家の中へ入ると、広い土間がありガラスの浮き玉などの漁具が置かれていました。

漁家 漁家

↑ 大きな鍋のような物は、「鰊粕(にしんかす;肥料)」を作る際にニシンを煮るためのもので、その後「角胴」という圧搾機で搾ったあとに残ったニシンが「鰊粕」だそうです。

漁家 漁家

漁家 漁家

↑ 漁師の男達が囲炉裏端で酒を酌み交わしながらくつろいでいるようです、どんな話をしているのでしょうか? ここにも「カラス除け」の網がありました。

漁家 漁家・説明板

『   漁家(ぎょか)     (説明板より)

 この漁家は、松前の中流漁家を表現したもので、長柾葺、板シャクリ(板外壁)、石置屋根である。
 漁家は用具の集積や、網の修理の作業を便利にするため、土間を通し庭にしているのが特色である。
 松前の場合、中流漁家は磯舟または保津船を持ち、にしん刺網五反、一反は、網の長さ二丈七尺(約8m10㎝)、深さ十尋(約18m)を一放としたものをもってにしん漁業をし、二、三人の出稼者を使用し、一漁期およそ三十両程度の利益があった。
(当時、江戸庶民の年間生活費は十両程度であった。)   』

   廻船問屋・敦賀屋

 廻船問屋は船問屋、回漕問屋などとも呼ばれ、江戸時代から明治にかけて河岸や港で廻船などの商船を相手に様々な業務を行った問屋です。

 積荷の売買、運送取次・取扱、積荷の揚げ降ろし、積荷の保管・管理、売買相手の斡旋・仲介、相場情報の収集・提供、船舶に関わる諸税の徴収、船具や各種消耗品の販売などその扱う分野は幅広いものがあったようです。

廻船問屋・敦賀屋 廻船問屋・敦賀屋

廻船問屋・敦賀屋 廻船問屋・敦賀屋

※ 以下の動画には、風切音などの雑音が入っていますので、視聴に際しましては音量に十分ご注意下さい。

 江戸時代には日本各地の米や物資を「将軍のおひざもと」である江戸と、「天下の台所」と呼ばれた大阪の二大都市に運ぶ海の航路「西廻り航路」と「東廻り航路」がありました。

 東北地方(新潟や山形など)の年貢米を江戸や大阪に運ぶための航路で、東廻り航路は「荒浜(宮城)から太平洋側を南下し江戸へ向かう」(のちに荒浜から酒田(山形)まで延長)航路、西廻り航路は「酒田(山形)から日本海側を南下し、下関(山口)、瀬戸内海を通って大阪へ向かう」航路でした。

廻船問屋・敦賀屋 廻船問屋・敦賀屋

廻船問屋・敦賀屋 廻船問屋・敦賀屋

 日本海や北海道の港から米や魚などが船で瀬戸内海をとおって大坂(大阪)へ運ばれ、この西廻り航路を走る船を北前船と呼ぶようになりました。

 北前船として使われた船は、当時貨物船として広く使われていた「弁才船(べんざいせん;木造帆船)」と呼ばれる大型の船でした。

廻船問屋・敦賀屋 廻船問屋・敦賀屋

廻船問屋・敦賀屋 廻船問屋・敦賀屋

 松前藩では米がとれないので、蝦夷地の物産と交易が経済を支えるものでした。

 昆布や鰊粕など蝦夷地の物産の積み出し港となったのは、江差、松前、箱館の「松前三湊(まつまえさんそう)」でした。

廻船問屋・敦賀屋 廻船問屋・敦賀屋

廻船問屋・敦賀屋 廻船問屋・敦賀屋

 これらの三湊や城下町の松前には多くの寺が建ち並び、商人や、津軽や下北から出稼ぎの漁民たちがやってきました。

 ニシンを煮て搾ったニシン粕が蝦夷地から本州へ運ばれ、米作の肥料、あるいは藍、綿花など商品作物の肥料として江戸時代の産業の発展に大きな役割を果たします。

廻船問屋・敦賀屋 廻船問屋・敦賀屋

廻船問屋・敦賀屋 廻船問屋・敦賀屋

 江戸時代に日本海やえぞ地周辺で活躍した大型船「弁財船」は、明治期に西洋式帆船にとってかわられるまで、えぞ地と本州間の物資輸送を一手に担って活躍しました。

 敦賀屋の土蔵内に展示されている船は、「長者丸」と名づけられた弁財船の模型で、松前藩が藩主の御座船として建造したものです。

廻船問屋・敦賀屋 廻船問屋・敦賀屋

『   弁財船と長者丸≪模型≫     (説明板より)

 江戸時代、日本海やえぞ地周辺で活躍した大型船は、弁財船と呼ばれ明治になって西洋式帆船にとってかわられるまで、えぞ地と本州間の物資輸送を一手に担って活躍した。

 これは、長者丸と名づけられた弁財船の模型で、松前藩が藩主の御座船として建造したものである。  』

廻船問屋・敦賀屋 廻船問屋・敦賀屋

廻船問屋・敦賀屋 廻船問屋・敦賀屋

『   廻船問屋(かいせんどんや)     (説明板より)

 松前藩内三湊(松前、江差、箱館)では、沖之口奉行所に従属する三つの問屋制度があった。問屋、小宿、附船である。
 問屋は松前から出入する船の積荷の内容を奉行所に申告し、また、廻船の手配をするなどの業務を担当した。
 この問屋は株式制で、年代によって異なるが、凡て十軒から十五軒程度の問屋があり、荷捌や廻船で莫大な財をなした。
 小宿の業務は問屋と同じであるが、取り扱う仕事は問屋全体の三割であって、業者は五軒程度である。
 附船は他国からの入港船の薪、水、食糧の供給、洗濯女の斡旋、宿屋等の業務を担当して利益を得た見返りとして難破船の救助等が義務付けられていた。   』

   自身番小屋

 自身番は、江戸時代に江戸や大阪などの町人地に設けられた番所です。

 使用された小屋は自身番屋などと呼ばれ、町内警備を主な役割とし町人によって運営されていました。

自身番小屋 自身番小屋

自身番小屋 自身番小屋

自身番小屋 自身番小屋

自身番小屋 自身番小屋

自身番小屋 自身番小屋

自身番小屋 自身番小屋

『   自身番小屋(じしんばんこや)     (説明板より)

 本来の自身番小屋は目明の勤務場所であったが、松前市街の自身番小屋は、火の見番所であった。
 したがって番所内には火の見番が居り夜は拍子木を叩いて町内を「火の用心」とふれて歩き、火災を発見すると半鐘を叩いて、消防組員が町内に知らせまわった。
 小屋のなかには龍吐水(腕用ポンプ)をはじめ刺子、馬穴、布馬穴、天水桶、鳶口、鋸、丸太、提灯等が備えられていた。
 海岸で風の強い松前では、一度出火すると消火が困難で、延焼しそうな先の家を潰してしまう破壊消防が主な消火の方法であった。   』

   番   屋

 「番屋」には、前述の「自身番小屋」(自警団の役割をしていた詰所)の他に、漁民が漁場の近くの海岸などに作った作業場兼宿泊所のことを示すこともあります。

 ここでいう番屋とは、後者のことです。

番屋 番屋

 江戸時代の松前藩では米がとれなく石高は無石でしたので、家臣にはアイヌとの交易ができる「知行地」を与えました。

番屋 番屋

 江戸時代中期になると、藩士たちは知行地の運営を商人に委託し、委託された商人は交易の利益の一部を運上金として藩士に納めました。

番屋 番屋

 この交易の中心がニシン漁になって行きました。

 江戸時代にはニシン漁は松前藩によって制限されていましたが、明治時代に入るとニシン漁が自由に行われるようになりました。

 

 そのため家族経営の刺網、網元以下数十人から数百人という規模でニシン定置網漁が行われるようになり、ニシン漁が大きく発展し漁獲量も増大して行きました。

 

 大正から昭和時代になると本州からたくさんの出稼ぎ人(ヤン衆)がやってきて小樽や留萌など日本海沿岸の町はニシン漁で大いに賑わい「ニシン御殿」といわれるような大きな番屋が各地にできました。

番屋 番屋

『   番屋(ばんや)     (説明板より)

 蝦夷地第一の生産物であるにしん(青魚・鯡・鰊)漁業は、春二月から入稼漁夫が入って、三月の彼岸のころから五月まで操業した。
 普通の漁師は刺網で二、三人の人で漁をおこなったが、資本のある人は大網(行成網のちに大謀網)を経営した。この網一ヵ統で約二十人位の人を要するので、漁夫は主に本州から集めた。
 漁場では大船頭、沖船頭、陸船頭、書役、知工(船大工やいろいろ工作をする人)等のほか、やん衆と呼ばれる入稼漁夫、にしん運びの女、にしん潰し(内臓を取って干す)女、飯炊き女等がいた。
 にしんが群来て(陸に寄って)くると、番屋で寝る暇もなく飯も立ったまま喰うという忙しさであった。  』 

※ 以下の動画には、風切音などの雑音が入っていますので、視聴に際しましては音量に十分ご注意下さい。

   武家屋敷

 松前藩屋敷の中で一番大きな建物であります「武家屋敷」へ向かいました。

 松前藩士の御先手組席(百十石高)家臣の屋敷を再現しているそうですが、「百十石高」とはどれくらいの地位の家臣なのか…、と思ってしまいました。

武家屋敷 武家屋敷

武家屋敷 武家屋敷

武家屋敷 武家屋敷

武家屋敷 武家屋敷

武家屋敷 武家屋敷

『   武家屋敷(ぶけやしき)   (説明板より)

 松前藩の家臣は、寄合、準寄合の重臣から、中書院席、中ノ間席、御先手組席の士分の侍がおり、皆広大な屋敷を構えていた。
 この建物は、これら松前藩士籍の最末席の御先手組席(百十石高)家臣の屋敷を再現したものである。
 武家門、武者堀を配した屋敷内には、式台、茶の間、台所、来客の間を配している。
 本来ならば背後に家人の居室、寝室と土間が付されているが、これを省略した。   』

武家屋敷 武家屋敷

武家屋敷 武家屋敷 

武家屋敷 武家屋敷

武家屋敷 武家屋敷

↑ 何やら曲者(くせもの)の姿が…、「出会えっ、出会え~~!」。

武家屋敷 武家屋敷

武家屋敷 武家屋敷

武家屋敷 武家屋敷

武家屋敷 武家屋敷

↑ さすが武家屋敷!、甲冑や日本刀が展示されていました。

武家屋敷 武家屋敷

武家屋敷 武家屋敷

武家屋敷 『   武家屋敷(ぶけやしき)   (説明板より)  松前藩の家臣は、寄合、準寄合の重臣から、中書院席、中ノ間席、御先手組席の士分の侍がおり、皆広大な屋敷を構えていた。  この建物は、これら松前藩士籍の最末席の御先手組席(百十石高)家臣の屋敷を再現したものである。  武家門、武者堀を配した屋敷内には、式台、茶の間、台所、来客の間を配している。  本来ならば背後に家人の居室、寝室と土間が付されているが、これを省略した。   』

武家屋敷 武家屋敷

武家屋敷 武家屋敷

武家屋敷 武家屋敷

武家屋敷 武家屋敷

↑ 松前藩屋敷内にある池(画像右)、ここでアジサイの花を浮かべる催し「浮き紫陽花(あじさい)」が行われます。幅3メートル、奥行き7メートルのL字形の池に浮かべた青やピンクなどの色とりどりのアジサイの花約2500本が浮かべられ、まるで水中で咲いているような光景がみられるそうです。

   あさみ商店

 松前藩屋敷の中で営業している「あさみ商店」は、松前漬の専門店です。お土産品やソフトクリーム、コーヒーもあるので、見学に疲れたら店内で一休みする場にもってこいです。

あさみ商店 あさみ商店

 また、ここでは「松前漬け作り体験」もできるそうです。

 私は松前漬けは大好物ですので体験してみたいと思いましたが、時間に余裕がなくできませんでした。

 「松前藩屋敷」には色々な建物が再現されていて見所満載の施設でした。

 時間にもっと余裕があれば、お土産屋さんをゆっくり覗いたり、コーヒーなどすすりながら一息ついたり、ソフトクリームも食べてみたかったのですが残念ながらできませんでした。

※ フリー百科事典ウィキペディ船問屋、日本史事典.com サイト『「西廻り航路」と「東廻り航路」』、公益財団法人 日本海事広報協会サイト海と船なるほど豆事典 船のなるほど 『北前船ってどんな船』、北海道歴史・文化ポータルサイトAKARENGA(あかれんが)「松前藩の繁栄と文化」、北海道ファンマガジンサイト「北海道を味わう ニシン漁最盛期と鰊御殿!」を参考にさせて頂きました。

 ご訪問頂きありがとうございました。

 

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