『北海道開拓の村』-旧菊田家農家住宅-
こんにちは、ご訪問頂きありがとうございます。
今回は,「旧菊田家農家住宅 (きゅうきくたけのうかじゅうたく)」を紹介します。
(訪問日:2018年(平成30年)6月上旬)
新潟県(にいがたけん)でつくられた「北越殖民社(ほくえつしょくみんしゃ)※1」は農業の開拓を目的とした団体で、明治期に江別の野幌原野に入植してきました。
『 旧菊田家農家住宅 説明板より
明治19年(1886)、新潟県長岡の有力者であった大橋一蔵(いちぞう)※2や関矢孫左衛門(せきやまござえもん)※3などは、北越殖民社を組織し、野幌原野の開拓を計画した。
この建物は、その一員の新潟県魚沼郡出身者が移住直後の明治26年(1893)頃に建築し、のちに同じく南蒲原郡(みなみかんばらぐん)出身の初代菊田常吉(つねきち)が買い受けて移築したものである。 』
この建物は、北越殖民社の一員として移り住んだ新潟県魚沼郡出身者によって、豪雪地帯である郷里・新潟の様式を取り入れた農家住宅です。
その後、1899年(明治32年)にその建物を新潟県南蒲原郡出身の菊田家が譲り受け移り住みました。
『 団体移住と農村生活 説明板より
明治19年(1886)の北海道庁の設立以降、本州以南から北海道へ移住する団体が増加した。新潟県では北海道への移住をめざす「北越殖民社」がつくられ、現在の江別市東野幌・西野幌に集団で移住し、農村生活を営んだ。慣れない土地での開墾や生活は厳しく、水害や冷害にも悩まされたが、稲作やえん麦、玉ネギなどの畑作を定着させていった。 』
※1 北越殖民社・・・明治19年(1886)に新潟県長岡町(現長岡市)旧長岡藩士三島億二郎が自宅に本社を置いて創立した。
その目的は戊辰戦争により減封処分(7万4千石から2万4千石)になった長岡再興の一環として、また明治維新以降の社会の混乱によって疲弊し貧窮した農民に新天地北海道での開墾の道を拓くことでした。
同社は、空知地方の月形や十勝地方の音更も入植対象にしましたが、最も成果を上げたのが「江別の野幌地区」でした。
※2 大橋一蔵(おおはしいちぞう)・・・北越殖民社の主唱者の一人で、谷三島億二郎、岸宇吉、笠原文平などで、長岡を中心とする北越の士族、地主、商人ら地域の有力者たちでした。
大橋一蔵は、明治9年(1876)の前原一誠の「萩の乱(はぎのらん)」に連座し、終身刑を受けるが、明治14年に特赦になります。
獄中から請願していた渡道・開拓に従うことが許され、明治19年(1886)に北海道に渡り、越後村(現江別市江別太)に移民村を創設しました。
※3 関矢孫左衛門(せきやまござえもん)・・・政治家(衆議院議員:1期)、銀行家、実業家。明治22年(1889)2月に大橋一蔵が上京中に不慮の死を遂げると、その後を引き継ぎました。
明治32年(1899)4月1日北海道庁長官は国有林(野幌原始林)を札幌、江別、白石、広島へ分割して払い下げることを発表しました。
もし森が払い下げられたら、「水源は枯渇し、堤は用をなさなくなり、水田は荒廃する」と考え、関矢がその先頭に立って体を張った反対運動を起こし、同年同月8日、上京する長官を札幌から函館まで追いかけて面会し、ついに計画を断念させるに至りました。
※4 野幌太太神楽(のっぽろだいだいかぐら)・・・江別市にある郷土芸能です。
明治31年(1898)に神楽師匠五十嵐金作が初めて野幌神社例大祭に舞楽を奉納したのが始まりです。
この神楽は野幌地区に入植した北越殖民社の人々の故郷・新潟県中越地方の神楽の伝統を受け継ぎ、同社社長の関矢孫左衛門が郷土芸能として奨励・伝承に努めました。
↓ 「野幌太太神楽」※4を紹介している部屋(衣装が顔ハメ看板のようになっているので、記念撮影ができます)
※ 「北海道開拓の村ホームページ:旧菊田家農家住宅」、「江別市公式ウェブサイト『江別市指定文化財・野幌太々神楽(無形民俗文化財 昭和48年3月31日指定)』」を参考にさせて頂きました。
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