『道南の旅』-函館市街そぞろ歩き-

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金森赤レンガ倉庫へ  こんにちは、ご訪問頂きありがとうございます。

   今回は、「函館市街そぞろ歩き」題として、『函館山麓から函館港埠頭まで下り金森赤レンガ倉庫、八幡坂、弥生坂、幸坂を通って目的地の「船見公園」まで行き、その帰り道「寺町二十軒坂線道路」を歩きながら旧函館区公会堂、ハリストス正教会、日本聖公会函館聖ヨハネ教会、真宗大谷派函館別院、そしてFMいるか607付近』へ戻った時の様子を大雑把に紹介します。

                 (訪問日:2019年(令和元年)7月下旬)

   金森赤レンガ倉庫

 函館ベイエリアにある観光スポットで、1909(明治42)年に建築されたレンガ造りの倉庫群で1988(昭和63年からショッピングモールやイベントホールなどとして営業しています。

 函館の西部にある金森赤レンガ倉庫は、長崎から移住してきた輸入雑貨や船具などの販売をしていた初代渡邉熊四郎が1887(明治20)年に営業倉庫業を始めたのが始まりです。

函館湾埠頭辺り 函館湾埠頭辺り

函館湾埠頭辺り 函館湾埠頭辺り

 海運業の活況に伴い倉庫を増築して行きましたが、1907(明治40)年の大火で6棟が焼失してしまいました。

 不燃材の倉庫として1909(明治42)年に建てられたのが現在の倉庫で、1988(昭和63)年に飲食店や土産物店などが入居する複合施設となりました。

 金森赤レンガ倉庫として営業している7棟の施設には、「函館ヒストリープラザ」、「金森ホール」、「金森洋物館」「BAYはこだて」に分かれています。

金森赤レンガ倉庫へ 金森赤レンガ倉庫へ

金森赤レンガ倉庫へ 金森赤レンガ倉庫へ

 この金森赤レンガ倉庫は、「金森倉庫群周辺の区域」として他にも旧函館郵便局の建物など函館の歴史と文化を伝える和洋折衷の元海産商の住宅などが数多く存在し「函館市元町末広町伝統的建造物群保存地区」となっています。

 伝統的建造物群保存地区は、弥生町、大町、末広町、元町および豊川町の各一部で面積約14.5ヘクタールになります。

 文化財建造物から明治から昭和の初期にかけて建築された和風,洋風,さらには和洋折衷様式の建築物など函館らしい伝統的な町並みを形づくっています。

金森赤レンガ倉庫へ 金森赤レンガ倉庫へ

金森赤レンガ倉庫へ 金森赤レンガ倉庫へ

 幕末期に開国により諸外国の文化が流入し、1854(安政元)年日米和親条約の締結により函館と下田を開港、その後米、蘭、露、英、仏と修好通商条約が締結され、長崎・横浜と共に対外貿易港となりました。

 各国の領事館が新築され、キリスト教会が立てられるなどして異国情緒豊かな街並みが形造られていきました。

 元町末広町伝統的建築物群保存地区は、「箱館発祥の地」で明治・大正・昭和初期に形造られた街並みが概ねそのままの形で継承され、坂道や街路等と融合しながら異国情緒豊かな街並み景観は函館市民共有の財産となっています。

金森赤レンガ倉庫付近のヨットハーバー 金森赤レンガ倉庫付近のヨットハーバー

金森赤レンガ倉庫 金森赤レンガ倉庫

 ここ函館は、2024(令和6)年4月に公開された映画「名探偵コナン 100万ドルの五稜星(みちしるべ)」の舞台ともなっています。

 土方歳三の刀に隠された謎を巡る物語となっていますが、ここ金森赤レンガ倉庫で殺人事件が起こりさらにストーリーが展開していくという作品でした。

 名探偵コナンで北海道が出て来る作品というと、2004(平成16)年4月に公開された「名探偵コナン 銀翼の奇術師(まじしゃん)」を思い出します。

金森赤レンガ倉庫 金森赤レンガ倉庫

金森赤レンガ倉庫 金森赤レンガ倉庫

『     函 館 港 と 倉 庫 群     (解説版より)
 安政元年(1854年)4月、米国のペリー提督が5隻の艦船を率いてこの港に姿を現し、箱館の住民を大いに驚かせたが、ペリー著「日本遠征記」に❝世界の最良港の一つ❞と記されているように、船が出入りしやすく、安全な港として国際的に名を知られた港である。
 函館港は、北海道の玄関口であるばかりでなく、安政6年(1859年)長崎、横浜とともに日本最初の貿易港として開港され、欧米文化が上陸した港すある。
 また、江戸時代後期に高田屋嘉兵衛が国後、択捉両島の漁場を開拓して以来、北洋漁業の根拠地として発達した港でもある。
 この赤レンガの金森倉庫は、明治40年(1907年)頃の建築。レンガを2枚半の厚さに積み上げた外壁、木骨の柱で、函館港の歴史を語り継ぐシンボル的存在であり、時折り、テレビ、映画のロケーションの場になっている。

      日本最初の気候測量所跡
 この辺りは、新島襄の海外渡航を助けた福士成豊(日本で最初に西洋型の船を造った続豊治の次男)が明治5年(1872年)プラキストンの機械を譲り受け、日本で最初の気象観測をする「函館気候測量所」を開設した所である。
                                函 館 市     』

金森赤レンガ倉庫 金森赤レンガ倉庫

金森赤レンガ倉庫 金森赤レンガ倉庫

『     函館市元町末広町伝統的建造物群保存地区   (解説版より)
 保存地区は、弥生町、大町、末広町、元町および豊川町の各一部で、面積約14,5ヘクタールの範囲です。
 函館は、安政6年(1859年)に長崎・横浜とともに、我が国最初の開港場として開かれ、以来、外国貿易や北洋漁業の基地として、また、北海道の玄関口として繁栄してきたまちです。
 この保存地区は、その中心的な役割を果たしてきたところであり、現在でも、旧外国公館や各宗教施設、洋風の公共施設や煉瓦造の倉庫群、堀割りなどのほか函館独特の上下和洋折衷様式の町家や洋風・和風の住宅等が混在して、異国情緒豊かな街並みを形成しています。
 函館市では、こうした町並みを、末長く後世に伝え残すため、昭和63年12月に函館市西部地区歴史的景観条例により「伝統的建造物群保存地区」として選定を受け、貴重な街並みの保護保存に努めています。
                             函館市教育委員会     』

金森赤レンガ倉庫 金森赤レンガ倉庫

金森赤レンガ倉庫 金森赤レンガ倉庫

 映画終盤のクライマックスシーンで今は旅客機としては引退してしまったジャンボジェット機が損傷し函館空港への予定が急遽「室蘭の崎守埠頭」に着陸することになりました。

 そこは埠頭、もちろん照明設備のない所でしたが怪盗キッド自信を囮にしてパトカー群をおびき寄せ、その赤色灯を滑走路の照明の代わりにして無事着陸するというお話でした。

 測量山や白鳥大橋なども作品中に描かれていて、意表を突くストーリー展開と、蘭と真一(コナン)、怪盗キッドの恋心と友情に感動してしまいました。

金森赤レンガ倉庫付近 金森赤レンガ倉庫付近

金森赤レンガ倉庫付近 金森赤レンガ倉庫付近

 金森赤レンガ倉庫群から「ラッキーピエロ」(函館のご当地ハンバーガーレストラン)や「スターバックスコーヒー 」、「西波止場」の建物を通り過ぎて旧桟橋まで続く岸壁が「函館港末広緑地(函館西波止場広場)」です。

 八幡坂を下った突き当たりに位置していて目の前に函館港や緑の島が望める広場で、「親水プロムナード」(2017年度から2021年度にかけて再整備)が備わる港湾緑地帯です。

金森赤レンガ倉庫付近 金森赤レンガ倉庫付近

金森赤レンガ倉庫付近から 金森赤レンガ倉庫付近から

 金森赤レンガ倉庫から先へ進んで行くと、通りの先に函館山が見えて来る坂道が「八幡坂」でかつて坂の上に八幡宮があったということからその名が付けら、函館山からの夜景と並ぶビュースポットとなっているようです。

 その函館山山頂には、先日探訪してきた函館山ロープウェイ山頂駅と山頂展望台の建物、アンテナ群などを望むことができました。

金森赤レンガ倉庫付近から 金森赤レンガ倉庫付近から

金森赤レンガ倉庫付近から 緑の島

 函館港末広緑地(函館西波止場広場)は、1976(昭和51)年までフェリーが発着していた岸壁が整備され、赤レンガ倉庫群から旧桟橋までの広場となりました。

※ この場所には、明治から昭和の中頃にかけ船から荷物を積み下ろすための荷上場がありました。1968(昭和43)年から東日本フェリー(現在の津軽海峡フェリー)の本社とフェリーターミナルがおかれて、1976(昭和51)年まで青森県の大間行きのフェリーが発着していました。

 金森赤レンガ倉庫群近く、ラッキーピエロ (函館のご当地ハンバーガーレストラン)とコーヒー 店の間を抜けると、目の前に函館港や緑の島が望め、遊歩道やベンチのある憩の広場に出ました。

 函館西波止場(総合みやげ店)裏を経て、旧桟橋付近まで続く岸壁が「函館港末広緑地」です。

金森赤レンガ倉庫付近から 金森赤レンガ倉庫付近から

↑ 映画「星に願いを。」のロケ地の一つ「新島橋」(画像右)

金森赤レンガ倉庫付近から 金森赤レンガ倉庫付近から

函館西部地区にある「新島襄の海外渡航地碑」の向かいに函館港の整備の際に出た「浚渫土砂(しゅんせつどしゃ)」で造られた埋め立て地(人工島)「緑の島」があります。

五角形の形の出島となっていて、約70万立法メートルの土砂で造られ周囲は1118メートル、面積は8万平方メートルとなっています。

サッカーの練習や凧揚げ、ジョギング、釣り等で利用され、ベンチや東屋もあるのでのんびりと海を眺めて過ごすのも良いです。

 陸地(函館市大町)と緑の島を結ぶ橋「新島橋( にいじまばし)」の上からは金森赤レンガ倉庫や函館市街、湾に浮かぶ船などの風景を一望することができ、夜景の名所にもなっています。

 

八幡坂へ 八幡坂へ

八幡坂へ 八幡坂

 この新島橋は、2003(平成15)年4月に公開された映画「星に願いを。」(1999(平成11)年の香港映画「星願 あなたにもういちど」(2001(平成13)に日本で公開)のリメイク)のロケ地となっていました。

 看護師の女性・奏(かな:竹内結子)は、事故で視力と発声能力を失った男性・笙吾(しょうご:吉沢悠)を看護していたある日、突然笙吾が交通事故で無くなってしまいますが、別の人間として生き返り奏に「ある想い」を伝えようと奮闘する物語です。

奏が笙吾に一緒にアメリカに行こうと誘う場所であり、ラストシーンでは奏が橋から海に飛び込んだ場所となっています。

 また、市内各所にロケで使われた場所(カフェ・モーリエ、旧ロシア領事館、八幡坂、谷地頭駅など)もあります。

   八 幡 坂

 函館山から見る夜景と並んで函館のビュースポットといわれる「八幡坂」(やはたざか)は、かつてこの坂の上部に「函館八幡宮」があったそうで、それが名前の由来となっています。

 赤レンガ倉庫から先へ進んで行くと、函館山へと続いている八幡坂で、坂上まで手すり付きの階段が整備されていて、、冬場には歩道にロードヒーティングが施されているので油断して滑って転ぶことはないかな?

八幡坂へ 八幡坂

八幡坂          八幡坂

『     八 幡 坂     (解説版より)
   HACHIMAN ZAKA SLOPE
基坂上の箱館奉行所付近にあった八幡宮が、文化元年(1804年)奉行所の拡張工事に伴い、当時の坂の上(現在の坂の中間付近に移された)ことからこの名が付いた。
八幡宮は明治11年(1878年)の火災によって焼失し、明治13年に現在の谷地頭町に移った。     』

 坂の突き当りにあるのが演歌歌手・北島三郎氏が通ったという函館西高校です。

 その真下からの眺めが絶景で「チャーミーグリーン」のCM(年配の夫婦が手をつなぎながらスキップする)のロケ地で評判となったことから「チャーミーグリーンの坂」とも呼ばれるそうです。

 そんなCMが流れていたことはかすかに記憶にありましたが、この坂で撮影されたという絶景までは思い浮かんできませんでした、残念っ!

 港に係留展示されている「青函連絡船記念館摩周丸」が坂下にある港の正面に見えていて、高校3年の修学旅行で乗った青函連絡船かも・・・?なんて思ってしまいました。

 冬には「はこだてイルミネーション」で「街路樹と石畳が照らし出される光景はきっと素晴らしいのだろうな…?」と思いつつ、冬にここ函館まで自家用車ではるばる来る体力と気力と勇気はないな~~~。

   シャルトル聖パウロ修道女会函館修道院

 シャルトル聖パウロ修道女会函館修道院は、イタリアのローマに総本山を置くキリスト教・カトリック教会の女子修道会です。

 1878(明治11)年5月にシャルトル聖パウロ修道女会から派遣された3人の修道女が函館市に到着し日本での宣教、教育事業、社会福祉事業を開始しました。

シャルトル聖パウロ修道女会函館修道院 シャルトル聖パウロ修道女会函館修道院

シャルトル聖パウロ修道女会函館修道院 シャルトル聖パウロ修道女会函館修道院

 大火で親を亡くした子供達を引き取って育てたのが現代の乳児院と児童養護施設となりました。

 1886(明治19)年に「聖保禄女学校」(現・函館白百合学園中学校・高等学校の前身)を開校しました。

 日本管区本部は東京に置かれ、東日本を中心に12箇所の支部修道院を拠点に活動しています。

「元町末広町重要伝統的建造物群保存地区」説明板 「元町末広町重要伝統的建造物群保存地区」説明板

元町公園付近にあった看板 元町公園付近にあった看板

   元町公園

 函館が「はこだて」と呼ばれるようになった由来の場所で、松前藩の初代藩主となる「武田信広」と共に津軽から来た「河野政通」が元町公園とペリー提督来航記念碑のある広場付近に「箱型の館」を築いたことから「箱館」の名が付いたそうです。

 江戸時代には箱館奉行所、その後は北海道庁函館支庁庁舎(現在はレストランとして使用、北海道指定有形文化財)等が築かれました。

 旧支庁庁舎の横には「四天王」(今井市右衛門、平田文右衛門、渡辺熊四郎、平塚時蔵)の像、その隣には「旧開拓使函館支庁書籍庫」(北海道指定有形文化財、レンガに明治の製造年の刻印あり)があります。

元町公園 元町公園

元町公園から 元町公園から

 坂の下にある旧イギリス領事館は、初夏になるとバラが咲き乱れる名所として市民に知られています。

 公園の広場ではチャリティイベントやフリーマーケットなどの催し物や「国際民族芸術祭」(8月)が行われています。

 基坂下から見ると、ブルーグレーとイエローの鮮やかな外観をした旧函館区公会堂の前庭のような位置関係に公園があり、たくさんの「箱館」が詰まっている公園です。

元町公園から 元町公園から

元町公園付近から 弥生坂付近

 函館山山麓から函館港へ伸びる坂の一つが「基坂(もといざか)」で、坂を上り切った所に元町公園があります。

 ですから、公園からは眼下に広がる市街地や函館港が一望できる絶好の場所であり、周囲には歴史的建造物の旧開拓使函館支庁書籍庫、旧北海道庁函館支庁庁舎などもあるので、ベンチに腰掛け一息つきながらじっくり眺めるのも一興な所です。

※ 基坂・・・明治時代に里数(りすう)を測る基点となる「里程基標(りていげんぴょう)」は立っていたことからこの名前が付いた。

   旧函館区公会堂

 旧函館区公会堂は、1910(明治43)年に建てられた洋風建築の代表的建物で、1974(昭和49)年に国の重要文化財に指定され、内部には気品ある華やかな雰囲気の家具や調度品が展示されています。

※ 和と洋の要素が融合した建築意匠に優れ、1974(昭和49)年に木造2階建ての本館、1980年(昭和55年)に管理人室にあたる附属棟が国の重要文化財に指定された。

 函館山の麓にある基坂(もといざか)から見上げると、正面に桟瓦葺の屋根・外壁がブルーグレーとイエローの建物が樹木の間からのぞいています。

 観光客から高い人気を誇る旧函館区公会堂で、1907(明治40)年の大火によって焼失した住民の集会所であった町会所(まちかいしょ)を再建しようと、豪商相馬哲平氏や住民からの寄付などを元手に、1910(明治43)年に完成しました。

旧函館区公会堂 旧函館区公会堂

旧函館区公会堂 旧函館区公会堂

『     旧 函 館 区 公 会 堂   (解説版より)
 明治40年(1907年)8月の大火は函館区の約半数、12,000戸余りを焼失した。
 この大火で区民の集会所であった町会所も失ったため、「公会堂建設協議会」が組織され、建設資金として区民の浄財を募ったが、大火後のため思うように集まらなかった。
 当時、函館の豪商といわれた相馬哲平氏は自分の店舗などの多くを焼失したにもかかわらず5万円の大金を寄付したため、これをもとに明治43年(1910年)現在の公会堂が完成した。
 この建物は北海道の代表的な明治洋風建築物で左右対称形になっており、2階にはヘランダを配しているほか屋根窓を置き、玄関、左右入口のポーチの円柱に柱頭飾りがあるなど特徴的な様式を表している。
 昭和49年5月、国の重要文化財に指定され、昭和57年約3年を費やして修復された。
                          函 館 市     』

 外観全体の印象もさることながら、細部にも目をやると屋根窓や棟飾柵、破風(ぺディメント)、円柱、柱頭飾などハイカラな造りです。

 館内の装飾も洋風建築物の視察などを通して自ら考案した職人の高い技術を見ることができ、中でも皇族が実際に利用したこともある2階の貴賓室は、外国製の壁紙やシャンデリア、暖炉などが用いられて内装の高貴な雰囲気に目を奪われます。

弥生坂付近 弥生坂付近

弥生坂 弥生坂

 公会堂の歴史や建物の特徴などを解説した充実の館内展示、艶やかなロングドレスやハイカラさん風の衣装を着用し異国気分を体験できる「衣裳館」、好みの衣装に着替えて2階のバルコニーから港を一望することもできるそうです。

 また、館内には売店もありお土産げを探しながら、あるいは1階大食堂にはカフェもありこだわりのコーヒーを味わうのもこれまた一興です。

 耐震補強を含めた大規模な保存修理工事のために2018(平成30)年10月から休館していましたが、2021(令和3)年4月にリニューアルオープンしたそうで、私が訪れた時はまだ工事中でその素晴らしい外観を見ることができませんでした。

   弥 生 坂

 箱館の主な坂の中では最長の「弥生坂」、かつては2本の坂でしたが1879(明治12)年の大火の後、現在のような1本の坂になりました。

 地域の繁栄と発展を願い「弥生」と名付けられました。

弥生坂         弥生坂

弥生坂付近から 弥生坂付近から

『     弥 生 坂     (解説版より)
    YAYOI ZAKA SLOPE
 明治12年(1879年)の大火後改良された坂で、それまでは浄玄寺(現東本願寺別院)、称名寺、実行寺が並び、「寺町の坂」といわれた。
「弥生」とは、「春」を意味し、発展を祈念して付けられたといわれている。
明治15年(1882年)、坂の横に小学校ができ、坂名に因んで弥生小学校と名付けられた。     』  

 市電の「大町」電停で下車すると、山腹に向かって伸びているのが弥生坂で、長さが約720メートルあります。

 過去2本あった坂道の時代には様々な名前が付けられていたそうで、1本には「称名寺さか」「西の坂」「寺町の坂」、またもう1本の方には「改心坂」、さらに上の坂には「薬師坂」「七面坂」等があったそうです。

   幸  坂

 1875(明治8)年に坂下の港を埋め立てた場所が「幸町」ということからこの名前が付きました。

 電停「函館どっく前」から歩いて約5分、千歳坂と姿見坂の間にある坂です。

 傾斜が厳しいですが、坂を上り切った所に「山上大神宮」(やまのうえだいじんぐう)があり、そこからの眺めが絶景です。

幸坂     幸坂

旧ロシア領事館 旧ロシア領事館

『     幸 坂
    SAIWAI ZAKA SLOPE
昔、坂の中ほどに神社があり、これを神明社といったので、この坂も「神明坂」と呼ばれた。神明社は明治7年(1874年)山上大神宮と現在名に改め、のち坂の最上部に移転した。明治8年、坂下の海岸が埋め立てられ、幸多かれと幸町(現弁天町)ができたので、町名に従い「幸坂」となった。     』

 弁天館(旧函館信用金庫弁天支店)前から始まる長さ約620mの坂で、見上げた先には神社の鳥居がかすかに見えるます。

 かつて坂上にある山上大神宮はもっとしたのほうにあって「神明社」と称していたので坂の名前も「神明坂」と呼ばれていましたが、1875(明治8)年に幸町に因んで坂名も変更されました。

幸坂 幸坂

 坂を登って行くと、途中に大きなポプラの巨木、さらに行くと右手に「旧ロシア領事館」、ここからさらに傾斜がきつくなり常盤小学校跡地の「船見公園」を越えると山上大神宮に到着します。

   ハリストス正教会

 日本初のロシア正教会聖堂で、白壁と緑屋根のコントラストが美しく函館を代表する歴史的建造物です。

 異国情緒漂う街並を形作る洋風建築物の代表格の一つがこの「函館ハリストス正教会」です。

 壁や屋根の色の外観の他に、週末などに美しい音色(「日本の音風景100選」に認定)を奏でる鐘が有名で、市民に「ガンガン寺」の愛称で親しまれています。

途中の道端で     途中の道端で

 1859(安政5)年に初代ロシア領事が現在の教会所在地にロシア領事館敷地を確保し、翌年領事館付属聖堂として建てられたのが初代の聖堂です。

 1907(明治40)年の大火で建物を焼失し1916(大正5)年に二代目の現聖堂が再建され、1983(昭和58)年に国の重要文化財に指定されました。

 レンガ造りの建物の壁を白の漆喰塗仕上げ、屋根は緑色の銅板を用い、屋上には冠型をしたクーポル(ドーム状の小塔)が6つありそれぞれに十字架が据えられています。

ハリスト正教会 ハリスト正教会

ハリスト正教会 ハリスト正教会

『     ハ リ ス ト ス 正 教 会    (解説版より)
 安政6年(1859年)敷地内に建てられた初代ロシア領事館の付属聖堂として建立されたのが始まりで、正しくは「函館復活聖堂」という。
 文久元年(1861年)青年司祭ニコライが、ロシアから来函し切支丹解禁を待って日本で最初にギリシア正教を布教した。(明治5年(1872年)東京転任)
 明治40年(1907年)大火で類焼したが、大正5年(1916年)聖堂はロシア風ビザンチン様式で再建された。
 この聖堂内部に、丸天井を装架しているのがこの様式の特徴である。屋根に装置された数多くの十字架と、その装飾部を飾る冠状構造が独特の形状をつくっており、緑色の銅板屋根は昭和43年に改装され、緑青を化学的に熟成したものである。
 再建当時の大鐘(重さ約2㌧)は、大正12年(1923年)関東大震災で大破した東京ニコライ堂復興の際に移され、かわりに大小6個1組の鐘と交換された。リズムと共にメロディを送る音色から「ガンガン寺」として市民に親しまれたが、この鐘も制維持中供出した。
 現在の鐘は、三重県桑名市在住の美術鋳造家から昭和58年6月に献納されたものである。
 昭和58年6月、国の重要文化財に指定された。
                            函 館 市     』

 正面玄関上にそびえる八角形の鐘塔に取り付けられている鐘は5代目で1996(平成8)年環境庁「日本の音風景100選」に認定されました。

ハリスト正教会 ハリスト正教会付近の坂

チャチャ登り 日本聖公会函館聖ヨハネ教会

※ チャチャ登り・・・函館市にある坂の中でもかなり急な登りです。「日本の道百選」に選ばれた「大三坂」を登って来るとあり、道幅が狭い石畳の坂道。登って行くと「聖ヨハネ教会」の建物や「ハリストス正教会」の屋根が見えてきて、その美しさに目を見張るほどです。

 この鐘の音は毎週土曜日午後5時の徹夜祷、日曜日午前の聖体礼儀など、1回あたり3~5分間にわたって函館山の麓一帯に響きます。

 2021(令和3)年初めから保存修理工事が行われ、2022(令和4)年末に建物関連の工事が終了し、2023(令和5)年春からは聖堂内の一般公開が再開されたそうです。

   日本聖公会函館聖ヨハネ教会

 1874(明治7)年に宣教が開始された英国聖公堂(現・日本聖公会北海道教区)の教会で、現在の建物は、1979(昭和54)年に建てられ茶色の十字形をした屋根が印象的で元町の有名な教会群(函館ハリストス正教会、カトリック本町教会)の一角です。

 4面に十字架をあしらい茶色の十字形をした屋根が特徴の建物で、函館山山頂からその十字架の屋根が見られます。

 1874(明治7)年に英国人司祭が函館に上陸し宣教活動を始め、歴代の牧師らは市内に学校や病院などを開設し、教育や福祉の分野でも多大な功績を残しました。

日本聖公会函館聖ヨハネ教会 日本聖公会函館聖ヨハネ教会

日本聖公会函館聖ヨハネ教会付近から 函館山付近にて

『     日本聖公会函館聖ヨハネ教会     (解説版より)
 この函館聖ヨハネ教会は、現在、世界聖公会のうちの日本聖公会に属する。明治7年(1874)英国聖公会海外伝道教会の宣教師W.デニングが函館に来て伝道を開始したのが日本聖公会の北海道伝道の始まりで、同派の道内における宣教活動の根拠地であった。
 明治11(1878)末広町に初めて聖堂を建てたが、翌年の大火で類焼し、その後も火災などのため幾度か移転した。度重なる火災による類焼の後、現在の地に再建されたのは大正10年(1921)の大火後である。
 この間、教育(アイヌ学校を始め靖和女学校などの開設)、医療奉仕活動などを活発に行なった。現在の建物は、昭和54年(1979)に完成したもので、上空から見ると十字の形に見えるが、これは中世期のヨーロッパの教会に見られる建築様式を取り入れ近代的なデザインとしてのものである。
                                  函 館 市     』

 1878(明治11)年に最初の教会が基坂の下に建造されましたが度重なる大火により移転を余儀なくされ、現在の聖堂は1979(昭和54)年に完成したものです。

 中世期のヨーロッパの教会に倣った工法を用い、近代的なデザインになっています。

 教会に隣接している牧師館は、2006(平成18)年に新築され切妻の屋根や下見板風の外壁、額縁付きの縦長窓など異国情緒漂う造が評価され「函館市都市景観賞」を受賞しています。

   真宗大谷派函館別院

 真宗大谷派函館別院(しんしゅうおおたにははこだてべついん)は、函館市元町にある真宗大谷派の寺院で、「東本願寺箱館別院」とも呼ばれ、国指定の重要文化財に指定されています。

 北海道の鉄筋コンクリート造の第一人者・木田保造(木田組の創始者)によって再建された耐火寺院建築で二十間坂沿いに立っています。

日本聖公会函館聖ヨハネ教会 真宗大谷派函館別院屋根 真宗大谷派函館別院屋根 真宗大谷派函館別院屋根

 本堂の面積は1115.11平方メートル、間口が33メートルあり、和風建築の細部を鉄筋コンクリート造で表現した寺院建築として日本最古のものです。

※ 函館市公式観光サイトはこぶら「函館港末広緑地(函館西波止場広場」「金森赤レンガ倉庫」「ラッキーピエロ マリーナ末広店」「函館西波止場」「函館市元町末広町伝統的建造物群保存地区」「緑の島」「八幡坂」「弥生坂」「幸坂」「函館ハリストス正教会」「函館聖ヨハネ教会」「真宗大谷派 函館別院(東本願寺)」「旧函館区公会堂~元町公園」「チャチャ登り」、フリー百科事典ウィキペディ「日本ハリストス正教会」「函館聖ヨハネ教会」「真宗大谷派函館別院」「星に願いを」「シャルトル聖パウロ修道女会」を参考にさせて頂きました。

 ご訪問頂きありがとうございました。

 

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