『道南の旅』-函館山探訪その3-
こんにちは、ご訪問頂きありがとうございます。
今回は、「函館山探訪その3」として、函館山のいくつかの歴史的遺構を紹介していきます。
(訪問日:2019年(令和元年)7月下旬)
前回では、千畳敷コースを進んで行き「千畳敷戦闘指令所跡」を見学し「千畳敷広場」で休憩、さらに地蔵山コースに入り「地蔵山見晴台」で眺望を楽しみました。
※ 以下の動画には風切音や機械音などの雑音が入っていますので、視聴に際しては音量に十分ご注意ください。
さらに七曲りコースへと入り鞍掛山傍の遊歩道を進んで「立待岬広場」・「立待岬」へ向かいました。
この辺りは鞍掛山からの下り道の下り坂になっているので行は楽ですが、復路もこの道を歩く予定なので「帰りはコワい~♬~」。
立 待 岬
立待岬(たちまちみさき:函館市住吉町16)は、函館山の南東・津軽海峡に突き出ている岬です。
海抜約30mの断崖絶壁で周囲を海で囲まれていて津軽海峡が一望できる絶景の場所で、かつては異国船を監視する要所であり明治時代には函館要塞を背後から守る要塞が築かれました。
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晴れて空気が澄んだ日には対岸・青森県の津軽半島や下北半島、岩木山などまで望むことができるそうです。
広場の一角には「はまなす公園」が整備され、夏には北海道の花・はまなすの香りとピンク色の花が迎えてくれます。
『 与謝野寛・晶子の歌碑 (歌碑より)
昭和31(1956)年、市立函館図書館の創設者であり館長でもあった岡田健蔵の十三回忌が行われ、その際に彼の雅号にちなんだ図書裡会が結成された。翌32年、同会は棒二森屋百貨店の援助を得て、岡田健蔵を顕彰する意味も込め、昭和6年に来函した与謝野寛・晶子の歌碑を建立した。
晶子の短歌中に岡田先生とあるのが、健蔵のことである。
また寛の作品として、健蔵の親友である宮崎郁雨の名前が読み込まれた短歌が選ばれた。
函 館 市 』
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函館市立函館博物館の創設者・岡田健蔵氏の功績を讃えるために、岬の手前には与謝野寛・晶子の歌碑が建てられています。
寛が宮崎郁雨を詠んだ「濱菊を郁雨が引きて根に添ふる立待岬の岩陰の土」、晶子が読んだ「啄木の草稿岡田先生の顔も忘れじはこだてのこと」の短歌が刻まれています。
石川啄木一族の墓
立待岬に向かう坂の途中に石川啄木(いしかわたくぼく)とその家族が眠る「石川啄木一族の墓」があります。
石川啄木(1886(明治19)年~1912(明治45)年)は、岩手県出身の歌人、詩人で本名は「石川 一(いしかわはじめ)」です。
満19歳で最初の詩集「あこがれ」(1905(明治38)年)を刊行し、歌集としては「一握(いちあく)の砂」(1910(明治43)年)、「悲しき玩具(がんぐ)」(1912(明治45)年)があります。
東京で校正係として働きながら初の歌集「一握の砂」を刊行し、三行分かち書き形式で生活し即した新しい歌風を取り入れ歌人として名声を得るようになりました。
啄木と函館との関りは1907(明治40)年5月から9月までの短い期間でありましたが、離散していた家族を呼び寄せて生活しました。
その頃、後に義弟(啄木夫人の妹・節子と結婚)となる宮崎郁雨氏と出会い、啄木一家を物心両面にわたって支えながら、啄木の死去の前年まで交友を持つこととなりました。
1907(明治40)年の函館大火により啄木が勤めていた小学校も新聞社も焼失してしまい仕事を失ってしまいました。
その後、札幌・小樽・釧路の各地を転々としながら啄木は約1年間ほど北海道で生活していましたが、中央文壇での文筆活動を希望し東京に向かいました。
1912年(明治45年)4月に第二歌集「悲しき玩具」の出版が決まりましたが、その数日後に肺結核のため満26歳で死去しました。
岡田健蔵(おかだけんぞう)氏は社会事業家、郷土史家で、函館市立図書館の初代館長、私財を投じて函館の郷土資料の収集に努めました。
岡田氏は啄木が死去した翌年(1913(大正2)年)に、中心となって函館図書館内で一周忌の追悼会を開催しました。
また、啄木の義弟である宮崎郁雨氏らと共に啄木にまつわる貴重な資料の維持保存のための団体として「函館啄木会」を組織しました。
啄木が宮崎氏への書簡に「死ぬ時は函館で死にたい…」とあった願いを叶えるために、岡田氏は啄木と彼の一族の遺骨を引き取り1926(大正15)年に立待岬に向かう坂の途中に「石川啄木一族の墓」として建立しました。
墓面には「東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」の一首が刻まれています。
旧登山道・5合目へ
「石川啄木一族の墓」に寄った後、立待岬へ向かって歩いて行った道・七曲りコースに戻り坂道を登って行きました。
地蔵山コースから千畳敷コースへ進みますが、牛の背見晴所辺りの途中に遊歩道が二股になっている所がありました。
そこを左に進んで行くと函館山展望台のある御殿山の方へ戻ってしまうので、ここからは右の道に進んで旧登山道に入りその5合目へ向かいました。
その5合目に行くとまた二股に分かれた分岐があり、その一つは6合目・7合目…と登って行くと函館山展望台のある御殿山につながる道となります。
もう一方の道に進むと、4合目・3合目…1合目と下って函館山の麓にある旧登山道の登山口に出ます。
そして、そのすぐ傍には「函館山ふれあいセンター」があり、函館山に生息している動物や植物などの自然の情報や散策コースについて解説されているパンフレット等が用意されています。
また、4合目を過ぎた辺りに「薬師山コース」への分岐があり、もう一つの歴史的遺構である「薬師山砲台跡」へとつながっています。
そこで私はこの後、旧登山道を一旦5合目まで行き4合目を通過した分岐から薬師山砲台跡に立ち寄り、再度分岐まで戻って3合目から旧登山道の登山口まで下り市道に出てロープウエイ山麓駅まで戻ろういう道程を考えていました。
旧登山道へ入ると、緩やかな下り坂になっているので道は林の中の道を涼みながらしばらく歩いて行くと、ヘアピンカーブのようになっている所にある「森の手入れ場」に出ました。
『 函館山のスギ (説明板より)
北海道には、スギは自生していませんでした。函館山で見られるスギは文化5(1808)年から7年かけて植林された人工林で、その後もたびたび苗木が植えられました。
旧登山道沿い(水元谷周辺)約1.5haに樹高約30m、胸高(大人の胸の高さ)約1.2m、直径が約80㎝の大木が多く見られます。ほかに直径約50㎝のスギ美林も宮の森コース沿いや函館八幡宮境内の東斜面約5haにわたってみられます。
スギが好んで生育する場所は、西日の当たらない谷間で腐植質に富む肥沃で湿気を帯びた所です。スギ分布図を見ると多くが東斜面や谷間に多く生育していることがわかります。
函 館 市 』
5合目から4合目、さらに薬師山砲台へ分岐する道の入口に着きました。
ここまで歩いてきた広い道とは違い両側に樹木や草がっている登山道のような細い道が林の中へと伸びていました。
『 ふれあいの森 (説明板より)
この森は、函館山最高峰の御殿山(334m)山頂より南東斜面の標高約160mから約311mわたる区域で、薬師山・水元山・つつじ山が含まれております。
旧登山道(延長約1,640m)と薬師山コース(延長約900m)と呼ばれる遊歩道があります。
薬師山コースの先端にある薬師山には薬師山砲台跡地、8合目には第2砲台要塞跡地があります。
また、旧登山道4合目付近には函館山に生息している野鳥を観察することができる野鳥観察小屋があるほか、旧登山道沿いには函館山の植物や動物について説明している学習展示パネルがありますので自然観察の参考にして下さい。
函 館 市 』
道を歩いて行くと、その途中で樹木が開けて眺望の利く所に差しかかりました。
そこからは函館市街地や函館湾、津軽海峡などが一望できました。
びっしりとひしめき合うように並んでいる多くの建物の中で、一段と高くそびえ立ちひと際目を引く形をした塔が目に着きました。
それが次の日訪れる予定の「明治の初め箱館戦争で旧幕府軍の本拠地であった五稜郭」、その傍に立つ「五稜郭タワー」でした。
歩き出すと再び樹木が生い茂る林の中に入って行きました。
登山道のような細い道でしたが、やがて道の両側にコンクリートあるいは石から切り出したブロックのような物を数段積み上げて造られた石垣のような物が見えてきました。
『 函館要塞について (説明板より)
函館要塞は、明治28(1895)年の日清戦争終結後に、日露戦争を想定し、津軽海峡の防衛強化を目的に明治31(1898)年から、約4年間を費やして函館山に大小4か所に砲台が建設されました。<2%Fspan>
他の多くの要塞が軍港を守ることを目的にしたのに対し、函館要塞は商業港である函館港を守るために建設されました。
日露戦争開戦後、津軽海峡でロシア艦隊が日本の船舶に損害を与えましたが、射程外であったため要塞からは一発の砲撃もされませんでした。しかし、要塞の存在により函館は攻撃されることはありませんでした。
その後、大砲は撤去されましたが、大正に入り、米国を仮想敵国とし、海空の攻撃から函館と青森の両港を守り、津軽海峡における敵艦隊の通航を阻止するため、津軽要塞として再整備されましたが、戦闘機を相手とした実践では役に立たず、函館は空襲に遭い甚大な被害を受けました。
函館要塞建設直後の明治32(1899)年に要塞地帯法が制定され、昭和21(1946)年に開放されるまで約47年間、函館山への一般市民の立ち入エは禁止されていました。
函 館 市 』
薬師山砲台跡
薬師山コースに進み歩いて行くと、二股に左右に分かれていく分岐に差しかかりました。
入口にあった案内板の中には一本道でしか表示されていなかったのでどっちに行っていいのか迷ってしましました。
左に進んだ方が方向的に何となく良いような気がして、もし右へ進んで行くと方向的に御殿山の方へ戻ってしまいそうみ思いました(何の根拠もなかったのですが…)。
そんな訳で、ここは左の道へ進んで行くことにしました。
※ 以下の動画には風切音や機械音などの雑音が入っていますので、視聴に際しては音量に十分ご注意ください。
函館山展望台等のある御殿山の標高が334mであるのに対し、薬師山砲台は標高250m付近にあるそうです。
そして、御殿山第一砲台や第二砲台、千畳敷砲台が函館湾内から津軽海峡の海上に向けて射撃する砲台でしたが、この薬師山砲台は函館港内に侵入した敵に向けて射撃するための砲台でした。
↑ 2番砲座跡と砲塁(ほうるい)の上に登る階段、さらにその奥には1番砲座跡へと続く(画像右)
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歩き始めの道は登山道のように細い山道でしたが、進んで行くうちに道幅もだんだんと広くなり整地されたような整った道へと変わっていきました。
両側あるいは片側だけに石垣のような塀のような物が道に沿うように延びていました。
↑ 砲塁の上に登る階段(画像左)、階段を登り砲塁の上から1番砲座を見る(画像右)
↑ 階段を登り砲塁の上から2番砲座を見る(画像左)、階段を登り奥へ進むと1番砲座へ(画像右)
砲座跡の周囲にある砲塁(石垣のような壁)の下に並んでいる凹み部分は「即用弾置場」といって砲弾を弾薬庫から引き出していつでも弾を込められるように置いて置く弾室だそうです。
↑ 砲塁の上をさらに奥に進むとまた階段があり道が奥へと伸びている(画像左・右)
※ 臼砲とは大砲の一種で曲射砲の一つ、曲射砲は弾丸が放物線軌道を描いて飛び目標を攻撃する大砲のこと。明治期の日本は上質な鋼鉄を製造する技術が未熟で造れず質の低い鉄でも製造できる臼砲を製造していました。砲身が短くて肉厚で臼(うす)に似ていることから臼砲と呼ばれました。
↑ 階段を登り振り返る(画像左)、続く道を奥へと進む(画像右)
※ 砲塁(ほうるい)とは、大砲を備え付けた砦(とりで)
さらに進んで行くと、御殿山の第二砲台や千畳敷砲台で見てきたような砲台跡であることがはっきりしてきました。
第二砲台や千畳敷砲台と違うのは、薬師山という小さめの山の斜面を切り開き一部を造成して造った感じで敷地内が全面平ではなく高い所や低い所が所々にあり、それに応じて階段が配置されてありました。
↑ 道の奥へとさらに進む(画像左・右)
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↑ 史料によると道の先は「指揮・見張所」となっています、左手下方には海(津軽海峡)右手上方には函館山展望台とロープウェイ山頂駅が見えました(画像左・右)
※ 以下の動画には風切音や機械音などの雑音が入っていますので、視聴に際しては音量に十分ご注意ください。
薬師山砲台には15cm臼砲(きゅうほう)4門が設置され、1898(明治31)年に起工し1899(明治32)年10月に竣工したそうです。
設置場所の標高は約248m、1916(大正5)年に御殿場第一砲台と薬師山砲台が廃止され、函館要塞は津軽要塞へと引き継がれていくこととなりました。
↑ 1番砲座を通過しさらに奥くと両側が石垣のような壁になっていました
↑ 右手に奥が行き止まりになっている袋小路が現れました(画像左)、その途中には三つの入口と部屋らしき物が見えました(画像右)
薬師山砲台には15cm臼砲(きゅうほう)4門が設置され、1898(明治31)年に起工し1899(明治32)年10月に竣工したそうです。
設置場所の標高は約248m、1916(大正5)年に御殿場第一砲台と薬師山砲台が廃止され、函館要塞は津軽要塞へと引き継がれていくこととなりました。
↑ 立入禁止と書かれた紙と柵がありましたので、奥へは行かずズームで様子を窺いました
↑ 奥は石垣の壁で行き止まり(画像左)、手前の部屋の入口の横のレンガが長年の風雪のためか?崩落状態でした(画像右)
※ 以下の動画には風切音や機械音などの雑音が入っていますので、視聴に際しては音量に十分ご注意ください。
三合目の手前辺りの山側にゴツゴツトした印象の岩肌が露出している所があります。
道との境には木の柵が張られていて説明板も設置されています。
実は函館山は火山で今から約100万年前の火山活動で隆起・沈下を繰り返し大きな島となって現れたのが函館山です。
↑ 砲台の台座跡付近に三等三角点がありました(画像左)、広場のベンチが並んで設置されている反対側に貯水所と思われる施設の跡がありました(画像右)
クサリが張られていて「立入禁止」になっていましたが、資料によるとそこは「貯水所」の跡なんだそうです。
水分補給とちょっとしたお菓子を食べながら休憩をとったので再び先へ歩いて行くと、砲座跡へ向かう初めにあった二股の所に出ました。
薬師山砲台跡の施設をグルっと回って元の場所に戻ってきたことになり、どっちに行けば良いのか悩んだことが無駄だったことが分かりました。
旧登山道入口
薬師山砲台跡を見学し終わった私は、5合目から下りてきた旧登山道と薬師山コースが交差する4合目近くの分岐まで戻りました。
函館山は野鳥の宝庫であり渡り鳥の中継地点でもあるので、1年中多くの野鳥の観察ができます。
旧登山道四合目と三合目の中間あたりにそんな野鳥を観察するための「野鳥観察小屋」があります。
誰でも利用することができ、函館山登山途中の休憩場所としても最適でしょう(ルールやマナーを守って利用させてもらいましょう)。
『 函館山の溶岩 (説明板より)
函館山は、約100万年前まで活動していた火山が噴火して溶岩などが盛り上がって出来た火山なんだよ。
この岩石は、そのころ出来た溶岩で「御殿山溶岩」と言われているよ。
岩石の表面はよごれているけれど、この下に落ちている岩石の中から、新しく割れたものを探してみよう!
かなり大きな美しい鉱物が光って見えるよ。
※石が落ちてくるかもしれないから、さくの中にはいらないでね。
函 館 市 』
三合目の手前辺りの山側にゴツゴツトした印象の岩肌が露出している所があります。
道との境には木の柵が張られていて説明板も設置されています。
実は函館山は火山で今から約100万年前の火山活動で隆起・沈下を繰り返し大きな島となって現れたのが函館山です。
その後、海流や風雨で削られて孤島になり、土砂が堆積して砂州ができていって渡島半島とつながった「陸繋島(りくけいとう)」が函館山で、100万ドルの夜景と言われる函館市街地はその砂州の上にできた街なのです。
この「函館山の溶岩」の露頭は、火山活動が盛んだった頃に火山から流れ出た溶岩が固まってできたものです。
3合目を過ぎ、2合目付近に近づくと傾斜がきついためか登山道がつづら折りとなっていました。
旧登山道の麓へ下りて行くに従ってその周囲はスギ林へと変わっていきました。
スギは北海道では自生していないので、この辺に見られるスギは主に1808(文化5)年から植樹されたものだそうです。
スギ林の中に2合目、そして1合目 もありました。
1合目の手前には函館山登山道路との交差点があり、その近くには旧登山道入口とふれあいセンターがありました。
函館山ふれあいセンター
『 函館市の❝木❞ ❝花❞ ❝鳥❞ (説明板より)
函館市の木(昭和50年4月1日制定)
おんこ(いちい)-イチイ科
常緑針葉樹で庭木や生垣、道路緑化、施設周辺緑化など観賞や景観向上のため広く利用され、赤い実をつけ小鳥をよぶ木として子どもたちにも人気があります。昔から植えられ、現在では、名・古木が多く、品位と長寿を誇る木として親しまれ、四季を通じて緑を提供してくれる代表的な木です。
函館市の花(昭和50年4月1日制定)
つつじ(やなつつじ)-ツツジ科
半落葉低木で道南特有のヤマツツジがポピュラーなもので、函館山の一角では、この花群で、華やかにいろどられ、初夏をつたえる花として市民に広く親しまれて、また情熱的な花として代表的な花です。
函 館 市 』
『 函館山の自然 (説明板より)
函館山は、火山活動や地殻変動により出現し、海流による漂砂で亀田半島とつながった陸繋島です。三方が海に囲まれ、標高約334m、周囲9㎞となっており、別名「臥牛山」とも呼ばれています。
函館山は、道南特有の温暖な気候であることや、昭和20(1945)年まで約半世紀にわたって一般市民の入山が禁止されていたことなど、植物の育成にとっては恵まれた自然環境にあったことから、約600種の植物が生育し、その約70%が本州北部地域と同種のものといわれています。
さたに四季を通じて野鳥が生息し、また、津軽海峡を南下・北上する渡り鳥の休息地として重要な役割を果たしており、約150種が観察される野鳥の宝庫として、鳥獣保護区特別保護地区に指定されています。
函 館 市 』
旧登山道1合目そして登山道入口・ふれあいセンターまで下りてきたこ函館要塞の遺構群の見学を一通り終えることができました。
この後、私はこの日の一連の函館山観光の出発点となった函館山ロープウェイ麓駅へと戻りました。
※ 函館市公式観光サイトはこぶら「函館山ロープウェイ」・「御殿山第二砲台跡」・「立待岬」、フリー百科事典ウィキペディ「函館山ロープウェイ株式会社」・「函館山」・「函館要塞」・「津軽要塞」・「石川啄木」・「立待岬」、一般財団法人 函館市住宅都市施設公社サイト「函館山緑地」を参考にさせて頂きました。
ご訪問頂きありがとうございました。
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