『北海道開拓の村』-旧来正旅館-
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今回は、「旧来正旅館(きゅうくるまさりょかん)」を紹介します。
(訪問日:2018年(平成30年)6月上旬)
前回紹介しました「旧小樽新聞社(きゅうおたるしんぶんしゃ)」を後にして、その隣りにある「旧来正旅館」へ向かいました。
『 旧来正旅館 (説明板より)
東永山(ながやま)兵村に屯田兵として入植した来正策馬(くるまささくま)は、明治31年(1898)に退役後、開通直後の宗谷本線の永山駅前に移り、待合所を開業した。
大正7年(1918)に大水の被害を受けたため、翌年の旅館兼待合所を新築し営業を再開した。 』
※ 東山屯田兵村(ひがしやまとんでんへいそん)・・・明治24年(1891)に入植した屯田兵村(現:旭川市永山町など)です。明治37年(1904)には入植した一部の地域では石狩川の氾濫で大被害を受けました。
東永山兵村に屯田兵として入植した来正策馬は、屯田兵退役後に開通直後の宗谷本線の永山駅(ながやまえき)前に移り住み待合所を開業しました、
ところが、大正7(1918)年に石狩川の氾濫の被害を受けたため、翌年に旅館兼待合所を新築して営業を再開し、旅人の宿泊や汽車の待合などに利用されました。
当時の北海道では開拓が進むにつれて街道沿いに「駅逓所(えきていしょ)」が設けられ旅人の輸送と宿泊の便宜の任に当たっていました。鉄道路線が整備されるに従い駅逓所は寂れて代わって駅前の旅館が賑わっていきました。
『 旧来正旅館 (説明板より)
1階は客馬車と汽車利用者の待合室と家族の居室、2階は客間6室の分かれている。
駅前に位置したことから、当初鉄道が未開通だった愛別(あいべつ)や上川(かみかわ)方面への旅行者、後には行商や造材の人達、そして北海道庁立上川農事試験場への役人達が多く利用した。
ここでは、大正期の駅前旅館の内部を家族の生活のようすを再現している。 』
※ フリー百科事典ウィキペディア「北海道開拓の村」を参考にさせて頂きました。
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