『道南の旅』-青函トンネル記念館-
こんにちは、ご訪問頂きありがとうございます。
今回は、「青函トンネル記念館」(福島町字三岳32-2)を紹介します。
(訪問日:2019年(令和元年)7月下旬)
松前町最後の見学場所「町村記念公園」と「北鴎碑林」を後にして次の町・福島町へ向かい、「青函トンネル記念館」を見学することにしました。
松前町に「さよなら」して渡島半島の最南端にある「白神岬」を通過、さらに国道228号線を北上し福島町に入りました。
国道沿いには「横綱千代の山・千代の富士記念館」もあって見学して行こうか迷いましたが、この後の予定を考えると時間的に厳しくパスさせてもらい、青函トンネル記念館に向かいました。
青函トンネルはJR北海道の鉄道トンネルで、本州の青森県東津軽郡今別町浜名と北海道上磯郡知内町湯の里を結んで1988(昭和63)年に開業しました。
『 津軽海峡の生いたち (解説パネルより;上の画像・左)
北海道に人々が住むようになったのは、今から約2万年前と考えられています。
大昔、北海道は中国大陸や本州と地面がつづいていました。そのため、人や動物は歩いて北海道へ渡ることができたのです。
120万年前
北海道は多島海となっていた時期で、黒松内低地帯、石狩低地帯、道北の天北地域や十勝平野の丘陵には浅い海で堆積した海成層が分布しています。そこからは大西洋起源種とされるシラオガイ類の化石が産出し、ベーリング海峡をとおって北海道や本州まで南下してきたことを示しています。
15万年前
この時期には寒冷化が進み、海水面は現在よりも130m前後低下しました。日本海とオホーツク海、太平洋、東シナ海をつなぐ間宮・宗谷・津軽・対馬・朝鮮海峡は陸地化(陸橋)し、日本海は内陸湖となりました。大陸から朝鮮・対馬陸橋をとおってナウマンゾウ、オオツノシカ、ヒグマ、楊氏トラといった大型の動物が日本列島に移動し、その一部は津軽陸橋をとおって北海道にまで渡ってきました。
2万年前
約11万年前からはじまった最終氷期のなかで最も寒冷な時期で、平均気温が現在よりも約7~8℃低下しました。海水面も低下し、約80~100m前後低かったとされています。北海道と本州を隔てる津軽海峡は狭い水道となり、本州とは陸続きににはなりませんでしたが、宗谷海峡と間宮海峡は陸橋となり、北海道は大陸の半島となっていました。
狭い水道となった津軽海峡は、冬季には結氷し氷橋ができていたかもしれません。
1.3万年前
この時期になると寒冷な気候は徐々に弱まり、海水面も上昇し、1万3千年前には宗谷海峡が成立しました。陸橋であった時期に南下してきた動物は絶滅するか、ナキウサギやウスバキチョウのように高山に移動したり、北サンショウウオやコモチカナヘビのように北海道東部や北部のスつ減でレリック(遺存種)として現在も生きのびています。
福島町の遺跡
道南地方では、縄文時代から擦文時代(紀元前2000~紀元後1200年)の遺跡がは発掘されています。これらの遺跡から、津軽海峡を渡って北海道と本州の間に交流があったことがわかります。
福島町でも多くの遺跡が確認されています。 』
『 車運丸(しゃうんまる) (解説パネルより;上の画像・右)
「車運丸」は、大正3年(1914年)12月10日に、青函航路に就航した最初の貨車運搬船です。
この船は、鋼製車両艀船であって、自航力を有しないので、専用の曳船に曳航されて、昭和2年(1927年)6月8日まで、青函航路を航海していました。昭和9年には天塩川鉄橋架設に使用されましたが、その後昭和11年に売却されスクラップとなり、その一生を終えました。 』
『 交流を促した金山 (解説パネルより)
千軒金山のはじまり
17世紀はじめ、蝦夷地は空前のゴールドラッシュにわきたちました。1618(元和4)年前後、本州から砂金掘として蝦夷地に渡った人は3万人から5万人はいたという記録もあります。
千軒金山は1604(慶長9)年に発見され、幕府から蝦夷地の金山を任せられた松前藩の直営となりました。
千軒岳の砂金は、大千軒岳とそこから流れる河川から産出され、中でも福島町の知内川上流域がその中心であったと考えられています。
金山とキリシタン
●蝦夷地に逃れたキリシタン
江戸幕府は1613(慶長18)年にキリシタン禁教令を発布し、キリシタンを厳しく弾圧しました。キリシタンは迫害を逃れるため北へと移動し、取締まりが及ばない蝦夷地の金山で砂金掘りをしながら信仰を続けました。
●海峡を渡った外国人宣教師
外国人宣教師のアンジェリス神父とカルワーリュ神父は金掘人に変装して千軒金山を訪れ、隠れて信仰を続けていたキリシタンを慰問してミサを行いました。しかし、後に二人とも日本で殉教しました。
●金山のキリシタン処刑
1637(寛永4)年の島原の乱をきっかけに、幕府のキリシタン弾圧はいっそう厳しくなり、1639(寛永16)年、ついに松前藩によって金山で働くキリシタン106人が処刑されました。後年、千軒金山番所跡に受難碑が建てられ、毎年7月には巡礼ミサが行われています。 』
『 ■早く・安全・確実な輸送路を (解説パネルより)
-船から鉄道へ-
津軽海峡を渡るには、船による交通しかありませんでした。しかし、船は天候に左右され、台風や吹雪などで欠航すると、北海道と本州を結ぶルートが閉ざされてしまいます。そこで、多くの人や物資を早く安全で確実に輸送するために、津軽海峡にトンネルを掘り、北海道と本州を鉄道で結ぶことが計画されました。
●弾丸列車
1939(昭和14)年、国が中心となって最初の青函トンネル計画が立てられました。これは、日本列島~アジア大陸を鉄道で結ぶ「弾丸列車計画」に基づくものでした。
■地質調査のはじまり
戦後、北海道の開発をすすめるにあたって、1946(昭和21)年、戦争によって中断されていた青函トンネル計画が再び持ち上がり、本格的な地質調査が始まりました。
●青函トンネルはどこに掘る?
地質調査の結果、東ルートの方が水深が深く、那須火山帯があり地質が悪いため、1949(昭和24)年、西ルートが適していると判断されました。
西ルート 白神~竜飛 東ルート 汐首~大澗
海底部分/21km 海底部分/20㎞
最大水深/約140m 最大水深/約270m
■洞爺丸事故
1954(昭和29)年、台風15号が津軽海峡をおそい、洞爺丸をはじめ5隻の青函連絡船が沈没しました。
この事故による犠牲者は1430名にものぼり、青函トンネルを望む世論が一気に高まりました。
■海底地質図の完成
津軽海峡に、ほんとうに海底トンネルを掘ることができるのか、それを確かめるには、地質の構造を明らかにした海底地質図が必要でした。
これまでの調査結果や岩石試料などを総合的に解析し、1956(昭和31)年、ついに海底地質図を完成させました。これほど精密な海底地質図は例がなく、国際的にも高い評価を受けました。
■調査のための掘削がはじまる
1963(昭和38)年、福島町で、北海道側の調査坑着工式が行われ、いよいよ掘削がはじまりました。トンネル工事に必要な、新しい技術も試され、適切な工法が検討されました。
■トンネル本工事へ
1971(昭和46)年、青函トンネルは調査線から実際に工事を行うことに決まりました。同時に「全国新幹線網計画」がスタートし、青函トンネルも新幹線が走る計画に変更されました。
そして、9月に本工事着工、11月「青函トンネル北海道側本工事起工式」が福島町吉岡で行われました。 』
『 トンネルマン物語 (解説パネルより;上の画像・左)
角谷敏雄さん(福島町月崎在住)
従事期間:昭和40年~58年漁業からトンネルマンへ転身。先進導坑の切羽(掘削の最前線)で作業指揮者として活躍。
毎日が地球との大戦争
先進導坑の切羽はトンネル工事の最先端。それだけに危険度も高い。身も心も滅びるくらい、神経をつかった。毎日が地球との大戦争。ヤマ(トンネルの坑内)はどんどん(水圧で)押してくる。それに負けないように、こっちも押し返さないと。ヤマの地質は複雑で、掘るのもいろんな工法があったけど、コールピックを使って人の手で掘るのが一番だった。
工事では、ためらい・弱音はだめ。常に冷静な判断をすることが大事。最初はトンネル工事っておっかないとしか思わなかったけど、その中でも、自分が掘る所は、絶対100%安全に掘る、という自信を持たないと、作業の指揮なんかできない。
昭和51年5月
最大の異常出水事故に遭遇
あの時は、まる3日、トンネルの中で作業した。水を止めるために、1袋50㎏ものセメントをどんどん運んで、バリケードを作った。結局、先進導坑を守るため、作業坑から本坑へ水を落とすことになった。この決断がなかったら、トンネルはどうなっていたかわからない。
神田克巳さん(福島町吉岡在住)
従事期間:昭和39年~58年機械部門担当。工事に使用する機械全般の修理・整備・取付などを行う。
班で競争しながら掘った
先進導坑の掘削は、工夫・機械・電気の作業員で班を組んでやった。全部で4班、1日3交代8時間労働(1班は休み)。4班あると、掘るのも競争になる。進行手当もあって、前の班よりたくさん掘ると歩合がいい。危険もあったけど、仕事が進むと気分もいいもんだった。
暑さにも負けず
坑内はむし暑くて、気温は40℃くらいもあった。長靴も汗でじゃぶじゃぶ。坑道の入口には梅干しや塩の錠剤があって、それをなめながらやった。TBMなんかは、機械自体が熱を出すから、刃の交換ともなれば、時間がもったいなくて機械の熱がひくのなんて待っていられないし、何回も水をかぶって作業した。 』
『 トンネルマン物語 (解説パネルより;上の画像・右)
平沼邦夫さん(福島長吉岡在住)
従事期間:昭和24~36年自分のイカ釣り船を調査船として提供し、地質調査に協力。おもに弾性波探査に関わる。
潮の流れをよむ
弾性波探査では、測量で決められた位置に、海上約200mごとに火薬を落としていく。津軽海峡は潮の流れが速いため、潮の流れを読んで、無線で場所を確認しながら、正確な位置に火薬を落としていくのは難しい作業だった。
30分間の勝負
今でも忘れない、竜飛灯台から1800m、水深80m。この地点は潮の流れが速くて、なかなか調査ができなかった。潮のデータを調べて、1年間である日の30分間だけ、調査できるとわかり、その時間をめがけて船を出した。潮の流れを確認して、「よし、今だ!」と火薬を落とした。無線で「成功だ!」って連絡がきたときはもう大喜びだった。この調査の時、火薬の衝撃で、今まで漁でも見たことのなかった鯛がたくさん浮かんで、これを夢中でひろったのもおお思い出になった。
花田順一さん(福島町日向在住)
従事期間:昭和38年~58年漁師からトンネルマンへ転身。機械部門担当。新しく導入された機械や技術を習得し開発をすすめる。
世界初150m水平ボーリングを達成。
海底に挑む人間の技術
水平ボーリングっていうのは、当時、どこにもない技術だった。津軽海峡は地質が悪くて、特に工事の最初は1ヵ月に100mも掘れなかった。普通のことやってたんじゃ2000mもボーリングできない。逆の発想をして、新しい工法をあみ出し、これが成功した。セメント注入も、最初は水圧に対してどれだけ注入すればいいのか、いつ水が吹き出してくるかわからない。相手は海底だからね。これもいろいろテストした。やることがうまくいきだすと、ツキもでてきてどんどん進んだ。毎日仕事が楽しかった。でも、最初はきつい労働環境だった。通気が悪くて、ふんどし一丁で汗だくになってやった頃もあった。 』
『 青函トンネル -3つのトンネルー (解説パネルより;上の画像・左)
青函トンネル断面路図
青函トンネルには3本のトンネルがほぼ並行して掘られています。
■本 坑
列車が走るトンネルです。新幹線と従来線が通ることができます。3階建てのビルがすっぽり入る大きさです。
■先進導坑
地質や水の出方を調査し、工法を検討・開発を行うために、最初に掘られたトンネルです。現在は排水や換気のために使われています。
■作業坑
本坑から約30m横に閉口して掘られ、本坑とは600mごとに横トンネルを掘って連結しています。本坑の施工方針を事前に詳しく検討したり、掘り出された土砂や、工具・資材の運搬に使われました。現在は保守用道路として利用されています。
■トンネルの概要
・区間 始点:青森県東津軽郡今別町浜名
終点:北海道上磯郡知内町湯の里
・長さ 総延長:53.85㎞
海底部:23.30㎞
陸上部:30.55㎞
・勾配 1.2%
(1000m進むと12m下がる)
・工費具 約7000億円
・着工 調査坑:1964(昭和39)年
本工事:1971(昭和46)年11月
・完成 1988(昭和63)年3月 』
『 トンネル技術 (解説パネルより;上の画像・左)
■調査技術
海底地質の構造を探るには、さなざまな方法で調査し、そのデータを総合して地質を判定します。こうした作業の積み重ねによって、海底の地層や断層の分布が明らかになりました。
■海底地質採取
ドレッジャーというかごのようなもので海底の岩石を採集し、岩石の種類や分布を調べます。
■弾性波探査(地震探査)
地下で人工的な地震を起し、波の伝搬を観察して地下の状況を推定する方法です。
■潜水艇による観察
海底のようすを観察するために潜水艇が利用されました。中でも「くろしおⅡ号」は水深200mまでもぐることができ、ボーリング機が装備され岩石試料も採取し、多くの貴重なデータが得られました。
■音波探査
海底に音波を送り、返ってきた音波から地層のしくみを判定します。
■円筒式ボーリング
コア(岩石標本)を掘り出して海底の地質を調査します。1962(昭和37)年、吉岡の沖合、水深22mの地点で行われた「円筒式ボーリング」と呼ばれる調査が最初で、海底下201mのコアを採取しました。 』
『 トンネル技術 (解説パネルより;上の画像・右)
■新しい技術開発
海底トンネルの掘削で最も重要なことは、止水と軟弱な地層の強化です。悪い地質や湧水との戦いに打ち勝つために、画期的な技術が開発されました。
■先進ボーリング
掘り進む前方の地質を正確に知るために、普通は垂直に掘るボーリングの機械を水平に使い、コア(岩石標本)を取り出して地質を調べました。設定した位置から、重力によって下にずれないように水平に掘るのは大変難しく、青函トンネルで行われた水平2150mのボーリングは世界に誇れる技術です。
■地盤注入
掘削に前に、水圧を受けていつ岩盤を固めたり、湧水を止めるためr¥二開発された技術です。
岩板に孔をあけ、そこにセメントミルクと水ガラスを混合した薬液を圧力をかけてポンプで注入していきます。軟弱な地盤や異常出水時に大いに用いられた工法です。
■コンクリート吹付
掘削の後、すばやく岩盤にコンクリートを吹きつけて、岩盤が崩れ落ちるのを防ぐ工法です。
混合したセメントを圧縮空気の力で水と一緒に吹きつけ、10~15cm厚さのコンクリート盤を作り、切り削った岩盤を覆っていきます。 』
『 コンクリート吹き付け機 (解説パネルより;上の画像・左)
機械の中に混合されたセメント・砂・砂利・急結剤を入れ、圧縮空気の力でパイプに送ります。それを先端ノズルで水と混合させて、掘削の終わった岩盤に吹きつけます。
■本坑貫通
1985(昭和60)年3月10日午前10時5分、青函トンネルの本坑が貫通しました。計画では、1979(昭和54)年3月に貫通する予定でしたが、予想よりもはるかに地質が悪く、本坑着手から14年という長い年月がかかりました。
■津軽海峡線開通
1988(昭和63)年3月13日、津軽海峡線が開通しました。斜坑掘削開始から24年、ついに青函トンネルに列車が走り、北海道と本州を結ぶ新たな歴史がはじまりました。
■海底駅の開業
青函トンネルの中に、世界で初めての海底駅となる吉岡海底駅と竜飛海底駅が開業しました。
●青函連絡船との比較
青函連絡船 津軽海峡線
距 離 113㎞ 160.4㎞
所要時間 3時間50分 約2時間 』
『 トンネル技術 (解説パネルより;上の画像・右)
■掘削技術
青函トンネルの掘削には、<3WAY工法>とよばれる3つの工法があり、地質の条件に合わせて適切な工法が採用されました。
■TBM(トンネル・ボーリング・マシン)
TBMは先端に取りつけられたカッターの回転と機体の推進力で掘り進む大型機械です。先進導坑と作業坑の掘削に使用されました。陸上部や一定の地質に対して力を発揮しました。
■ロードヘッダー
らせん状のカッターの回転によって岩石を削り取る削岩機です。小回りがきき、直径5~6mの断面を1日約3~5mで掘り進みます。軟弱な岩盤に手間どる工区でもロードヘッダーは有効で、大きな成果を上げました。
■発破工法
地質の変化が激しいところでは、発破工法が採用されました。掘削機が岩盤に孔をあけ、ダイナマイトをつめこみ、爆発させて岩盤を崩し土砂を外に運び出します。
次に、支保工で崩落を防ぎながら、掘削を進め、その後方から覆工を行っていきます。 』
福島町青函トンネル記念館の沿革としては、1973(昭和48)年に前身となる「北海道立青函トンネル記念館」が開館しましたが建物の老朽化などにより2002(平成14)年に閉館、その後2005(平成17)年にその跡地に「福島町青函トンネル記念館」が開館しました。
※ 青森県側にも青函トンネル記念館があります。
津軽半島最北端の竜飛岬近くに「道の駅 みんまや」(愛称:龍飛岬、青森県東津軽郡外ヶ浜町三厩龍浜99番地)に「青函トンネル記念館」と「竜飛ウィンドパーク展示館」(閉館;無料休憩施設のみ)があります。
記念館経由で隣接するトンネル記念館の建物内に入ることができ、青函トンネル竜飛斜坑線(ケーブルカー)の「青函トンネル記念駅」から「体験坑道駅」へ、青函トンネルの体験坑道へと行くことができます。
私が訪れた福島町の青函トンネル記念館には、この「青函トンネル竜飛斜坑線」のような施設は残念ながらありません。
『 北海道新幹線を知ろう! (解説パネルより)
北海道に新幹線がやってきた
2016年3月26日、新青森~新函館北斗間に北海道新幹線が開業し、これで東北まで来ていた新幹線網とつながり、東北や関東地区にとても早く行けるようになりました。
本州と北海道を結んでいた青函トンネル(約54㎞)も有効に活用され、青函トンネルを含む約82㎞の区間は在来線(貨物列車)と混在して運航することになりました。この区間を「共用走行区間」と呼んでいます。
青函トンネルと新幹線
青函トンネルは、昭和39年(1964年)に工事が始められ、
昭和62年(1987年11月)に世界一長い鉄道トンネル(53.85㎞)として完成(開業は1988年3月)しました。現在はスイスのゴッダルドトンネルに次ぐ2番目の長さになりましたが、海底部を通るトンネルとしては世界一の長さです。
新幹線開業までは在来線が走っていましたが、新幹線が走ることを考えて作られていたので、レールを3本にしたり電気設備の工事など、一部の改良だけで北海道新幹線が通れるようになりました。 』
『 北海道新幹線を知ろう! (解説パネルより)
北海道新幹線H5系車両
北海道新幹線用車両H5系は、JR東日本のE5系をベースとして製作されています。H5系は、東北新幹線への直通運転を考慮し、10両構成(定員731名)の車両構成や各種設備、さらに520㎞/hでそうこうする性能などの基本仕様はJR東日本のE5系と同じです。
(※北海道新幹線区間の最高速度は260㎞/hです)
(※在来線との共用走行区間は当面140㎞/hです)
H5系車両のHは、英語の社名「Hokkaido Railway Company」の頭文字を表しています。
北海道新幹線の線路と架線
北海道新幹線の一部(新中小国信号場~木古内)では、新幹線の歴史上はじめて新幹線のと在来線が同じ線路を共用して走ることになりました。そのため、青函トンネルを含む約82㎞の区間は、三線軌条という特別な線路の構造になっています。
また電気を供給する河川も、在来線・新幹線それぞれの中心の中間にずらすことで、共用できるようになりましたが、新幹線が走ることにより電力は、2万ボルトからより高い2万5千ボルトに引き揚げられたので、従来の機関車と電車は走られなくなりました。(※共用走行する貨物列車は2万5千ボルト対応となっています)
三条軌条
三条軌条は、3本の線路を並べることにより、標準軌(新幹線)と狭軌(在来線)のどちらも走行できる線路です。しかし、専用の装置が必要で、部品の数もとても多くなり、特に枕木を固定する金物は三条軌条の区間だけで、100万個も使われています。そのため維持するのが大変で、高い保守の技術が必要です。
いずれは札幌まで
2030年度末にはいよいよ新函館北斗~札幌間の北海道新幹線が開通する予定で、北海道新幹線開業前は乗り継ぎで札幌から東京まで9時間もかかっていた鉄路の旅は、約5時間にまで短縮されます。札幌~函館間も1時間13分とグッと身近になります。 』
青函トンネルは津軽海峡を縦断し北海道と本州を結ぶ延長53.85㎞の長大な海底トンネルです。
1954(昭和29)年に台風による青函連絡船洞爺丸沈没という大きな海難事故を契機として青函トンネルの建設が推進されました。
『 青函トンネルをのぞいてみよう1 (解説パネルより)
電車が通るトンネルの高さは7.85m
3階建てのビルがすっぽり入る高さだ
トンネルの中は、一年中気温20度、湿度80~90%に保っているよ
青函トンネルをのぞいてみよう2
線路はスーパーロングレール!
長さ52.7㎞
つぎ目がないなが~いレールだよ
線路にもう1本レールをたすと新幹線も走れるようになるよ 』
『 青函トンネルをのぞいてみよう3 (解説パネルより)
良い丘海底駅は海面から149.5m下にあるよ
日本一低いところにあるえきだよ
日本一低い一等水準点は青函トンネルの中にあるよ
一等水準点は、地形や建物の高さを測るときに基準になる標識だよ
青函トンネルをのぞいてみよう4
トンネルの中の岩にしみた海水はポンプで排水しているよ
排水量は1日に約3万700トン
25mプールの訳5杯分!
福島町では、トンネルの排水を道路の下に流して流雪溝に利用しているよ。
トンネルの排水は冬でも温度が高いから雪をとかしてくれるよ。 』
海底での掘削では4度の大出水事故による水没の危機を乗り越えて、1983(昭和58)年先進導坑、2年後の昭和60年には本坑が貫通し、1988(昭和63)年に「津軽海峡線」として開業に至りました。
2016(平成28)年3月には「北海道新幹線(新函館北斗・新青森間)」が開業しました。
北海道新幹線開業に伴い二つの海底駅(「吉岡海底駅」、「竜飛海底駅」)が廃止されてしまいました。
※ 北海道新幹線の開業で、海峡線区間の架線電圧や自動列車制御装置の変更など設備の更新が行われ在来線用の電車・電気機関車が走行できなくなり、特急や寝台列車は全て廃止され津軽海峡を通過する在来線定期旅客列車はなくなりました。
竜飛海底駅(青森県側)は2014(平成26)年3月に廃止され、現在は避難施設としての機能を維持しつつ「竜飛定点」と呼ばれています。
吉岡海底駅(北海道側)は同じく2014(平成26)年3月に廃止され、こちらも難施設としての機能を維持しつつ「吉岡定点」と呼ばれています。
実は私、津軽海峡線が開業してから間もなく下り列車に乗る機会を得まして、当時駅だった海底駅にも立ち寄っていました。
青函トンネル10周年を記念して1998(平成10)年3月に吉岡海底駅に登場した「ドラえもん広場」は残念ながらまだありませんでしたが、土・日や夏休みなど子供連れや外国からの観光客には大人気だっただろうことは想像に難くありません。
これらの海底駅見学は今も残しておいて欲しかった企画です、なくなってしまったのが非常に残念に思います。
『 軸流送風機 (解説パネルより)
トンネル工事中、トンネルの中の温度、湿度がともに高く、作業のために空気が汚れます。常に作業現場に新鮮な空気を大量に送り、仕事がしやすい環境を保つため、この送風機を補助として使用し、斜坑口から採り入れた新しい空気を切羽(トンネル掘削工事の最先端)まで送り続けました。 』
『 排水ポンプ (解説パネルより)
トンネル内の湧水を地下300mのためますに集めた後、一気に地上まで排出するポンプです。トンネル内には常にわずかな湧水があるため、この排水ポンプはトンネル機能を維持するための重要な設備のひとつです。 』
『 試すい機 (解説パネルより)
トンネルを掘り進む前に、前方の地質を調べる試すいを行う機会です。最先端にダイヤモンドまたは硬い鋼がついた鉄管を回転させながら岩石の中を切り込み、鉄管の中にコアを掘り出して地質を調査します。700~800m掘ることができます。 』
『 アジテーターカー (解説パネルより)
混合した生コンクリートを運搬する車です。コンクリートを使用する場所に着くと、ドラムを回転させ、混合しながら生コンクリートを供給します。陸上で使われているミキサー車と同じ役目をします。 』
『 緊急用排水ポンプ台車 (解説パネルより)
昭和51年5月、北海道側吉岡作業坑で発生した異常出水により、固定ポンプが完全に水没して使用できなかったため、緊急に導入されました。排水に大きな力を発揮してトンネル水没をまぬがれ、青函トンネル工事史上最大の危機を乗りこえることができました。 』
※ フリー百科事典ウィキペディ「福島町青函トンネル記念館」、「道の駅みんまや」、「青函トンネル竜飛斜坑線」、「竜飛定点」、「吉岡定点」、一般財団法人青函トンネル記念館サイト「青函トンネル記念館」、福島町役場・福島町観光協会サイト「青函トンネル記念館」、北海道観光節サイト『北海道駅前観光案内所・北海道新幹線「(廃止)竜飛海底」、(廃止)吉岡海底」』を参考にさせて頂きました。
ご訪問頂きありがとうございました。
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