『道南の旅』-光善寺-
こんにちは、ご訪問頂きありがとうございます。
今回は、「光善寺:松前町」(松前郡松前町字松城303)を紹介します。
(訪問日:2019年(令和元年)7月下旬)
光善寺は松前町にある浄土宗の寺院で、1575年(天正3年)に建立されました。
光善寺は初め「高山寺」と称していましたが、1533年(天文2年)に「順譽了圓和尚(じゅんよりょうえんおしょう)」により開山し、1621年(元和7年)に後水尾天皇(ごみずのおてんのう)から高徳山光善寺の号を賜り改称しました。
1808年(文化5年)、1937年(天保8年)、1903年(明治36年)の3度火災によって建物の大半を失いました。
本尊の「木彫阿弥陀如来立像」は平安時代末期の作で北海道指定の有形文化財になっています。
仁王門は1760年(宝暦10年)に、山門は1847年(弘化4年)に建造されたもので、箱館戦争の戦禍を逃れて現存しています。
『 光 善 寺 (こうぜんじ;高徳山、浄土宗) (説明板より)
現在は東京芝増上寺(しばぞうじょうじ)の末寺であるが、旧本寺は京都百万遍知恩寺である。天文二年(一五三三)創立、開山は順輿了圓(じゅんよりょうえん)和尚で、はじめ高山寺と称したが、元和(げんな)七年(一六二一)第五世良故(りょうこ)和尚の代、後水尾帝ごみずのうていの御宇参内(ぎょうさんだいをとげ)、高徳山光善寺と御宸翰(ごしんかん)、竪額たてがく、御綸旨(ごりんし)並びに法衣を下賜(かし)せられ、寺号を改称する。
文化五年(一八〇八)、天保八年(一八三七)、明治三十六年と三回の火災にあっており、伽藍がらんの大半烏有うゆうに帰したが、現存する仁王門は宝暦十年(一七六〇)、山門は弘化四年(一八四七)に造立されたものである。
浄土宗の準檀林(じゅんだんりん)、中本寺として末寺は十ヶ寺を数えている。寺宝としては本尊の阿弥陀如来(あみだにょらい)立像は躯量(くりょう)九〇センチ、平安時代末期(約九〇〇年前)の木造乾漆像(かんしつぞう)で貴重なものである。また北村法橋(ほうきょう)筆の大観経曼荼羅図(だいかんぎょうまんだらず)、法然上人御絵伝(ほうねんじょうにんごえでん)、磐城林蔵寺良歎(りょうたん)筆の大涅槃図(だいねはんず)等がある。また境内には古木の血脈桜、本堂裏庭園は江戸後期の作庭で貴重な石組が残っている。
松 前 町 』
私が訪問したのは7月下旬で桜の花の時期はとっくに過ぎていましたが、境内は桜の名所で春には多くの参詣者が訪れるそうです。
その中には、松前の桜の古木・血脈桜(けちみゃくざくら;樹齢推定280年以上)があります。
その品種はマツマエハヤザキで、松前を代表する早咲き桜の品種・南殿(なんでん)の親木になっている重要な桜です。
血脈桜には桜の精と血脈(人が極楽へ渡る際の通行手形)にまつわる伝説があり、その名称もその伝説に因んでいます。
『 血脈桜記念保護樹木 (説明板より)
松前の春を彩る桜の歴史は古く、主に京都、北陸地方等から移入されたと云われています。この桜(樹種:サトザクラ)は松前一の桜の古木(推定樹齢300年)で、松前を代表する品種「南殿(なでん)」は、この血脈桜を親木にして増やされてきました。高さ8m、東西17mに伸びる枝張りには、毎年、5月には、満開の花を咲かせます。
この桜には、宝暦年間(1751~1763)に美しい乙女の姿を借りた桜の精が住職の枕元に現われ、血脈(亡くなった人が仏になれるようにお坊さんが与える書付)を授けられたことにまつわる伝説があり、桜の花の精によるものであるのか、今なお、その麗姿が見る者の心をとらえます。
昭和48年3月30日指定
北 海 道 』
『 伝説・血脈桜その1 (説明板より)
今から二百数十年前、松前城下の生符町(いげっぷ、現在の大磯)に柳本伝八という鍛冶屋がおりました。若い頃から上方見物を夢見て一生懸命、精を出して働いておりました。やがて跡取り息子が、家業を継ぎ永年の上方見物の夢がかなうこととなり、娘の静江を伴って松前を船出したのは春まだ浅い頃だったことでしょう。見るもの聞くもの皆珍しい江戸を見物し、東海道を上ってお伊勢参り、京都の名所旧跡を訪ね、百万遍知恩寺(ひゃくまんべんちおんじ)松前光善寺の本山では、先祖の供養にお経をあげてもらいました。奈良をめぐり、吉野山に着いた二人は山を彩る桜の美しさに魅せられ、しばらく宿をとることにしました。宿の近くに尼寺があり、若い庵主と娘の静江はたいそう仲良しになりました。やがて松前への帰郷の日が来ました、名残を惜しんで、若い尼僧は一本の桜の苗木を静江に手渡し「国に帰られたらこの桜を私と思って植え育てて下さい。」というのです。松前に帰った親娘は菩提寺である光善寺の前庭に植えてもらいました。桜は年毎に美しい花を見せ、人々の目を楽しませるようになりました。 』
『 伝説・血脈桜その2 (説明板より)
時は流れて伝八や静江はもう世にありませんが、桜は大木となりその名花ぶりは松前の評判になっていました。ある年のこと光善寺では古くなった本堂を立て直すことになりこの桜がどうしても邪魔になり、切り倒しの相談がまとまりました。切り倒しの前日の夜のことです。住職の枕元に桜模様の着物の美しい娘が現れ、涙を浮かべて「私は明日にも命を失う身でございます。どうか極楽浄土へ行けますようにお血脈をお授け下さい。」と願うのです。住職は夜も更けており「明日にしてくれ」というのですが、娘は聞き入れる風もなく、ただ泣くばかりで、やむなく住職は念仏を唱えお祈りし、血脈を与えたのです。娘は丁重にお礼をいい住職の前から姿を消しました。住職には何かしら夢うつつのような出来事でした。
翌朝、ふと切り倒す桜を見上げていると、枝先に何か白い物が結び付けられていました。近寄って見た住職は、一瞬声をのんでしまいました。何と昨夜のあの娘に与えた「血脈」ではありませんか。「そうか昨夜の娘はこの桜の精だったのか」直ちに桜を切り倒すのは取り止め、盛大な供養をしました。本堂改築の縄張りも変えられました。明治36年2月6日光善寺が火災で焼失した時、幹が焼けましたが現在の姿に復活したそうです。 』
源義経(みなもとのよしつね)は1189年(文治2年)に藤原泰衡(ふじわらのやすひら)によって衣川館(ころもがわのたて)で討たれましたが、密かに脱出し蝦夷地に逃れたという「源義経北行伝説」が伝わっています。
その伝説に因んでいる「義経山」の碑や、江戸時代に大雪のため芝居小屋の屋根が崩壊し多くの犠牲者を出し、その慰霊のためにつくられた「大石仏」などもあります。
『 義経寄進の仏像と碑 (説明板より)
津軽海峡を渡ってえぞ地松前に上陸した義経は、渡海の無事を仏に感謝し阿弥陀千体を刻んで一堂に安置した。
これが義経山欣求院である。
その欣求院は明治元年から同2年にかけての戊辰の役で戦火をこうむったが、阿弥陀像だけは焼け残り、光善寺に合されたと伝えられる。
この光善寺の境内にある「義経山」の碑は、義経山欣求院の山号といわれる。 』
『 大 石 仏 (説明板より)
明治の中頃まで現在の町民総合センターの後ろに殿様の観覧席などもあった大きな劇場がこざいました。寛政九年、正月藪入りの日の興行に多数のお客さんが入場し、賑やかでございましたが、大雪の為屋根が潰れて多数の犠牲者を出してしまいました。その弔いの為当時の有志や住職によって建てられたものを明治四十一年にこの境内に移したものでございます。 』
『 光善寺白八重桜 -こうぜんじしろやえざくら- (説明板より)
松前町の光善寺に古くからあった桜で、昭和29年(1954)に浅利政俊氏と田中淳氏が調査した時は、既に親木は枯れてヒコバエで行った。その後、接木で増やした。昭和40年(1965)、桜研究家の船津金松氏と長基健治氏が来町した際に見ていただいたが、該当する園芸品種がなかった。昭和43年(1968)、光善寺住職松浦氏と浅利氏が協議の上、「光善寺白八重桜」と命名した。清純優雅で美しい。
(ヤマザクラ群サトザクラの仲間オオシマザクラの影響)おそらく江戸時代じゃら松前にあったと思われる桜。花は純白色。花径約4.5cm。花弁は約10枚。強い芳香がある。 』
『 光善寺仁王門天井画 (説明板より)
仁王門は宝暦十年(1780)に建立。「龍の天井画」が描かれていましたが、長年の風化により、どのように描かれていたのか復元が不可能な状態でした。平成二十五年に改築修理した仁王門には、少しでも松前に縁のある画家に描いて頂こうと、お母様が松前出身の日本画家佐藤宏三氏に依頼しました。
檜の板に墨で描かれた「龍」は魔除けの仁王像とともに聖域である境内地に不浄の輩や悪霊が入り込むのを拒み睨みつけてくれることでしょう。 』
※ 以下の動画には、風切音などの雑音が入っていますので、視聴に際しましては音量に十分ご注意下さい。
※ フリー百科事典ウィキペディ「光善寺」、プレスマンユニオン・サイト 北海道STYLE「光善寺(血脈桜)」を参考にさせて頂きました。
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