『道南の旅』-旧中村家住宅-
こんにちは、ご訪問頂きありがとうございます。
今回は、「旧中村家住宅(江差町)」(檜山郡江差町字中歌町22)を紹介します。
(訪問日:2019年(令和元年)7月下旬)
前回紹介しました「旧関川家別荘」を後にして、次に「旧中村家住宅」へ向かいました。
江戸時代の豪商の別荘跡地で当時の庭園を再現した「えぞだて公園」敷地内にある旧関川家別荘を後にしてから、再び「いにしえ街道」(旧国道)へ戻り中歌町にあるのが「旧中村家住宅」です。
旧中村家住宅は、いにしえ街道に面して「主屋」があり、その後ろに「文庫倉」、「下ノ倉」、一番後ろに「ハネダシ」が国道228号線に面するように階段状に連なっています。
能登商人であった旧横山家と並んで江差の二大旧家といわれる旧中村家、その住宅は近江商人の大橋家が商いをしていた店舗兼住宅で大正4年(1915)江差を離れるにあたり支配人であった中村家が譲り受けたものです。
旧横山家住宅は昭和38年(1963)に北海道指定文化財に、旧中村家住宅は昭和46年(1971)に国の重要文化財に指定されています。
家屋は江差と北陸を往復していた「北前船」で囲んで来た越前石(笏谷石(しゃくだにいし))の土台に総ヒノキ切妻造りの二階建てで、主屋から国道側まで文庫倉、下ノ倉、ハネダシまで続く「トオリニワ」と称する通路で結んでいて当時の問屋建築の代表的な造りとなっています。
ハネダシは江差を中心に北海道の西海岸に発達した特殊な倉庫建築です。
砂浜に大きい掘立て柱を立て二階が宅地からはみ出して建てられたことから「ハネダシ」の呼称がついたそうです。
海へ向けて門のある一階を「穴蔵」といい直接海に張り出していて、二階を「ハネダシ」といいました。
当時は海岸の波打ち際にハネダシがあり、満潮時には1階部分に海水が浸水するので弁財船がこのハネダシの2階部分(船着き場を兼ねた倉庫)に直接接岸して船から荷下ろしができるようになっていました。
独特の建物が完全に残っているのは横山家と中村家の2軒だけであり、ハネダシと接していた海岸線は建物から遠く離れていて、当時の海岸は昭和40年代に埋め立て・嵩上げされ元の地面(元の海岸線)から約1mほど高い位置に国道228号線が走っています。
『 ハネダシ (説明板より)
江差を中心に西在郷に発達した特殊な倉庫建築である。この地域は海岸段丘が海にせまり、海岸平野に乏しく宅地が狭狭隘(きょうあい)で、しかも海浜と宅地の段差が大きいという条件下に適応する建造物として生れたものである。
砂浜に太い大きな掘立て柱を建て一階とし、その上に二階として宅地をはみ出して(ハネダシ)建てられているので、この呼称がついたのであろう。
「ハネダシ」の用途は多目的で家業によって種々である。問屋や海産商等の商家では、荷物の積降しの時は、ハネダシのそばまで弁財船や艀(はしけ)が入って、ハネダシの階段の階段(一階から倉庫に通ずる)に歩板を渡して荷役する。
あるいは、鰊漁期には、柱に落し込み板を入れて「ローカ(沖揚げした鰊を一時貯蔵するところ)」として使用する。
また、漁家で常時、漁具庫、二階は番屋にも利用した。一般的には、一階は穴蔵ともよばれ道具庫であり、二階は倉庫や仕事場に使用した。普通二階部分に物見用の窓が付けられ、二階下見板に各家の屋号が大きく付せられていた。 』
『 たてあみ(建網) (説明板より)
海中の一定の場所に設置しておいて魚類を捕獲する漁網具、すなわち定置網の総称として用いられる言葉。
元来は東北・北海道方面でいっぱんに用いられ関西方面では多くの場合、定置的な刺網類をさす。
漁網具分類上でいう建網類は、台網類、落し網類、桝網類、出(だし)網類、張網類及び網えり類の6種をさし漁業法上でいう建網は一定水面に敷設する刺網と小型定置の曲(まげ)網をさす。 』
『 さしあみ(刺網) (説明板より)
魚群の移動通過する場所を選んで網を設置し、網目に魚を刺させたり、あるいは、からませたりして漁獲する目的の網漁具の一群。
形はおおむね帯状をしており、網の大きさは、目的によってまちまちである。
刺網は使用状態によって底刺網、浮き刺網、流し刺網などに分類される。
底刺網は水底あるいは水底近くを遊泳する小さい漁族を対象として水底に展張し、浮き刺網は、表層、虫層を遊泳する魚類を対象として水面下に展張する。
流し刺網は表層性の魚類を対象とする点は浮き刺網と同一であるが、定置しないで移動を水にまかせているものである。 』
『 江差の鰊漁 (説明板より)
当地では、鯡(魚偏(さかなへん)に非(あらず))と書いてニシンと読ませていた。松前の国では米は獲れないが、多量に獲れる鰊によって生活ができたので「ニシンは魚に非らず、米である」という発想からだと言われていた。それだけ藩経済を支える重要な収入源であった。
この鰊漁業の基地として栄えたのだ江差である。
当地での鰊漁は前浜漁業といわれ、群来(くき)を見て網を入れる刺網漁法で前浜に建網が許可されたのは慶応2年(1866年)以降のことある。
それに対して、蝦夷地場所(鰊場)では建網による多量漁獲は早くから行われていたが、その蝦夷地場所への出稼基地だ当地であり、この場所で鰊の多くが集貨され取引されるのが江差の港であった。
鰊漁は、豊漁、不漁の波の多い漁業であるが、当地は大正2年(1913年)を最後に鰊の回遊が全く見られなくなり、前浜漁業は終りとなった。 』
昭和49年(1974)に中村家から江差町へ建物が寄付され、昭和55年(1980)1月から昭和57年(1982)3月まで修復工事が行われました。
下ノ倉では日本海交易について、ハネダシでは漁具について展示されています。
※ プレスマンユニオンサイト「北海道STYLE『旧中村家住宅』」、北海道江差町の観光情報ポータルサイト「旧中村家住宅」、NPO法人文化遺産の世界サイト「建築 江差の旧家にみる『ハネダシ』と防災の備え」を参考にさせて頂きました。
ご訪問頂きありがとうございました。
※青字部分をクリックすると、そのページが表示されます。
※これまで掲載した記事をご覧いただくには、「ホーム」ページの「インデックス」をご利用ください。