『北海道開拓の村』-旧本庄鉄工場-

スポンサーリンク

旧本庄鉄工場 こんにちは、ご訪問頂きありがとうございます。

 今回は、「旧本庄鉄工場 (きゅうほんじょうてっこうば)」を紹介します。

       (訪問日:2018年(平成30年)6月上旬)

 開拓の村への出入口になっている旧札幌停車場から村の中に入ると「市街地群」が迎えてくれますが、そこを向かって左端にある広い通りへ進み並んでいる建物を見学しながら時計回りに歩いて行きました。

旧本庄鉄工場 旧本庄鉄工場

旧本庄鉄工場 旧本庄鉄工場

『   旧本庄鉄工場      (説明板より)

 明治30年代から2代にわたって営業した本庄鉄工場の仕事場として、大正14年(1925)から昭和50年代まで使用されていた。石狩川河口にひらけた旧市街にあって、漁具や漁船の付属品のほか、農具などをつくっていた。
 開拓地に欠かせなかった鍛冶屋にようすがしのばれる建物である。   』

旧本庄鉄工場説明板 旧本庄鉄工場

旧本庄鉄工場 旧本庄鉄工場

 市街地郡の奥へ至ると「漁村群」に入り、馬車鉄道の軌道が設置されている通りに沿って行くと、今度は「農村群」、その奥には「山村群」と続いています。

 山村群から右端の広い通りに出て、再び「市街地群」の建物となり「旧広瀬写真館」を見学しました。

旧本庄鉄工場 旧本庄鉄工場

旧本庄鉄工場 旧本庄鉄工場

 前回紹介しました「旧札幌拓殖倉庫」を後にして、今回紹介する「旧本庄鉄工場」となります。

旧本庄鉄工場 旧本庄鉄工場説明板

『   旧本庄鉄工場     (説明板より)

 大正14年(1925)、この鉄工場には親方と小学校を出たばかりの弟子が1人と、13人の家族がくらしていた。春先には農具を、夏から秋にかけては石狩(いしかり)川河口での鮭刺網漁(さけさしあみりょう)の使う錨(いかり)や和船の船釘(ふなくぎ)の製造を、家族も手伝いながらおこなった。
 火床(ほど)の中で材料を熱し、金敷の上で鍛造(たんぞう)作業をくり返す鍛冶(かじ)職人の仕事は、すべてが勘に頼る手仕事であった。ここでは、鮭漁期をむかえる時期の鍛冶屋のようすを再現している。   』

『   旧本庄鉄工場     (説明板より)  大正14年(1925)、この鉄工場には親方と小学校を出たばかりの弟子が1人と、13人の家族がくらしていた。春先には農具を、夏から秋にかけては石狩(いしかり)川河口での鮭刺網漁(さけさしあみりょう)の使う錨(いかり)や和船の船釘(ふなくぎ)の製造を、家族も手伝いながらおこなった。  火床(ほど)の中で材料を熱し、金敷の上で鍛造(たんぞう)作業をくり返す鍛冶(かじ)職人の仕事は、すべてが勘に頼る手仕事であった。ここでは、鮭漁期をむかえる時期の鍛冶屋のようすを再現している。   』 『   旧本庄鉄工場     (説明板より)  大正14年(1925)、この鉄工場には親方と小学校を出たばかりの弟子が1人と、13人の家族がくらしていた。春先には農具を、夏から秋にかけては石狩(いしかり)川河口での鮭刺網漁(さけさしあみりょう)の使う錨(いかり)や和船の船釘(ふなくぎ)の製造を、家族も手伝いながらおこなった。  火床(ほど)の中で材料を熱し、金敷の上で鍛造(たんぞう)作業をくり返す鍛冶(かじ)職人の仕事は、すべてが勘に頼る手仕事であった。ここでは、鮭漁期をむかえる時期の鍛冶屋のようすを再現している。   』

『   旧本庄鉄工場     (説明板より)  大正14年(1925)、この鉄工場には親方と小学校を出たばかりの弟子が1人と、13人の家族がくらしていた。春先には農具を、夏から秋にかけては石狩(いしかり)川河口での鮭刺網漁(さけさしあみりょう)の使う錨(いかり)や和船の船釘(ふなくぎ)の製造を、家族も手伝いながらおこなった。  火床(ほど)の中で材料を熱し、金敷の上で鍛造(たんぞう)作業をくり返す鍛冶(かじ)職人の仕事は、すべてが勘に頼る手仕事であった。ここでは、鮭漁期をむかえる時期の鍛冶屋のようすを再現している。   』 『   旧本庄鉄工場     (説明板より)  大正14年(1925)、この鉄工場には親方と小学校を出たばかりの弟子が1人と、13人の家族がくらしていた。春先には農具を、夏から秋にかけては石狩(いしかり)川河口での鮭刺網漁(さけさしあみりょう)の使う錨(いかり)や和船の船釘(ふなくぎ)の製造を、家族も手伝いながらおこなった。  火床(ほど)の中で材料を熱し、金敷の上で鍛造(たんぞう)作業をくり返す鍛冶(かじ)職人の仕事は、すべてが勘に頼る手仕事であった。ここでは、鮭漁期をむかえる時期の鍛冶屋のようすを再現している。   』

 この建物は、明治30年(1897)に建てられ、石狩市親船(石狩市「番屋の湯」(弁天町)の隣り町)で大正14年(1925)から昭和50年代まで営業していた鍛冶屋です。

『   旧本庄鉄工場     (説明板より)  大正14年(1925)、この鉄工場には親方と小学校を出たばかりの弟子が1人と、13人の家族がくらしていた。春先には農具を、夏から秋にかけては石狩(いしかり)川河口での鮭刺網漁(さけさしあみりょう)の使う錨(いかり)や和船の船釘(ふなくぎ)の製造を、家族も手伝いながらおこなった。  火床(ほど)の中で材料を熱し、金敷の上で鍛造(たんぞう)作業をくり返す鍛冶(かじ)職人の仕事は、すべてが勘に頼る手仕事であった。ここでは、鮭漁期をむかえる時期の鍛冶屋のようすを再現している。   』 『   旧本庄鉄工場     (説明板より)  大正14年(1925)、この鉄工場には親方と小学校を出たばかりの弟子が1人と、13人の家族がくらしていた。春先には農具を、夏から秋にかけては石狩(いしかり)川河口での鮭刺網漁(さけさしあみりょう)の使う錨(いかり)や和船の船釘(ふなくぎ)の製造を、家族も手伝いながらおこなった。  火床(ほど)の中で材料を熱し、金敷の上で鍛造(たんぞう)作業をくり返す鍛冶(かじ)職人の仕事は、すべてが勘に頼る手仕事であった。ここでは、鮭漁期をむかえる時期の鍛冶屋のようすを再現している。   』

『   馬橇の台木曲げ     (説明板より)

 この倉庫内の展示では、明治後期から昭和30年代にかけて、北海道で最も多く使われた柴巻馬橇(しばまきばそり)の台木の鼻曲げ作業を再現している。
はじめに、下ごしらえした太くて堅いミズナラの材を蒸籠(じょうろう)でふかして柔らかくし、曲げ型に固定する。次に、ロクロで巻いて先端を曲げ、弦(つる)をかけて乾燥する。この後、曲り具合の似たものを2本選んで1組とし仕上げる。                                            この鼻曲げは、馬橇の製作過程の中で、最も高度な技術を必要とする作業であった。   』

※ 「北海道開拓の村ホームページ 『旧札幌拓殖倉庫』」を参考にさせて頂きました。

 ご訪問頂きありがとうございました。

 

旧札幌拓殖倉庫 ⇦⇦⇦ 今     回 ⇨⇨⇨ 旧藤原車橇製作所

※青字部分をクリックすると、そのページが表示されます。

※これまで掲載した記事をご覧いただくには、「ホーム」ページの「インデックス」をご利用ください。

スポンサーリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。