『道南の旅』-開陽丸記念館-
こんにちは、ご訪問頂きありがとうございます。
今回は、「開陽丸記念館(かいようまるきねんかん)」(江差町)を紹介します。
(訪問日:2019年(令和元年)7月下旬)
前回は、「開陽丸記念館」のすぐ傍にある『えさし海の駅開陽丸』周辺の様子を紹介しました。
今回はいよいよ開陽丸記念館の中に入り、開陽丸を通して幕末から明治維新の頃の様子を紹介していきたいと思います。
開陽丸記念館は、戊辰戦争(1868年(明治元年)から1869年(明治2年))中に榎本武揚(えのもとたけあき)らを乗せ活躍した幕府の軍艦「開陽丸」を復元して作られた資料館です。
↑ 開陽丸記念館入口に向かう桟橋
開陽丸記念館・甲板から
↑ 開陽丸の甲板へ
※ 以下の動画には風切音、操作機械音等の雑音が入っていますので、音量に十分ご留意下さい。
↑ 開陽丸の甲板・マストなどの様子
※ 以下の動画には風切音、操作機械音等の雑音が入っていますので、音量に十分ご留意下さい。
開陽丸記念館・2階
開陽丸記念館入口から中へ入ると券売窓口があります、そしてその階が2階になります。
2階には、「開陽丸の概要」、「大砲・砲弾展示」、「映像展示室」、「テーマ展示」、「会議室・艦長室」などの各種展示のほか、「ハンモック体験」、「砲隊体験」の体験コーナー、記念撮影コーナーがあります。
↑ 入口から記念館の中へ入ると、左手の方に黒光りする大きな大砲がずらりと並んで展示されています。
↑ さらに奥へと進むと、多くの船員たちによる当時の大砲発射の様子が再現されていました。
↑ 大砲発射体験コーナー
↑ 開陽丸に使われた「帆布」の展示
↑ 丸い窓の奥を覗くと、当時の様子を再現したミニチュア模型が見られました。
↑ 発注したオランダの造船所で開陽丸が完成した際、その祝いの晩餐会で出されたご馳走を再現したものです、とてもおいしそうでした!
↑ 江戸時代から明治時代への過渡期に旧幕臣と新政府の間で「戊辰戦争」が始まりました。
↑ オランダへ留学し完成した開陽丸と共に帰国し幕府海軍の指揮官となった榎本武揚は、旧幕府軍を率いて蝦夷地(現・北海道)へ向った。
↑ 江差沖に停泊していた開陽丸は、不運にも嵐による風浪のため座礁・沈没してしまいました。
『 開陽丸座礁・沈没 解説板より
幕府期待の最新鋭艦、開陽丸の最後は余りにも悲運でした。夜9時頃から猛吹雪となり風雪猛烈を極め、錨も船も荒波に翻弄され、暗礁に乗り上げてしまいました。
『夜10時頃に到り碇保つ能わず。之に加うるに蒸気の力も暴風激浪にてその効あらずして、一瞬に岸近くに吹きつけられ、遂に浅瀬に乗りあげたり。この海底暗礁多くして再び船出す能わず…』
開陽丸は幕府再生の期待を背負いながらこれといった華々しい活躍もなく、江差沖の海底に姿を消していったのです。 』
↑ 開陽丸を失った榎本らの旧幕府軍は海軍力が低下、その後五稜郭で降伏し、新政府軍に敗れ箱館戦争は終結しました。
『 箱館戦争終結 解説板より
松前藩の降伏によって江差、松前地方は榎本軍の占領下となり戦いは終ったように思われましたが、政府は1868年(明治元年)11月19日に榎本軍追討令を発令しました。このため官軍各藩は青森に集結しますが、冬が間近いことから春を待ち、出陣することになりました。
翌年の4月に官軍は青森を出航して乙部へ上陸しました。官軍は、初めに占領下にあった江差を攻撃し、つづいて鶉山道の二股や松前口へ向った官軍は、榎本軍の固い守りのために苦戦をしますが、軍艦の援護のよって勝ち進み箱館五稜郭まで進軍しました。
この戦いの決戦は5月11日に始まり、五稜郭を陣営にしていた榎本軍が降伏して終りました。
オランダから帰国後幕府の海軍総裁となり、1868年(けいおう年)8月、開陽丸他7艦を奪って江戸湾を脱出し蝦夷島総裁に就任した榎本武揚は、まさに幕末から明治維新にかけての風雲の熱血児でした。榎本武揚は、旗本の次男として生れ、若くして将来を嘱望されていました。江戸の昌平坂学問所で漢学を学びながら、アメリカ帰りのジョン万次郎に英語を習い、19才で箱館奉行となっています。徳川家とその家臣の存続を賭けて戦っ箱館戦争は、新政府軍に敗れましたが、のちに新政府の要職に就き、日本の発展に尽くしました。 』
↑ 操船シュミレーション(左) ハンモック体験コーナー(右)
↑ 当時の衣装を身に着けて記念撮影ができます!
『 葵の紋 解説板より
この紋は開陽丸の船体に付けるため江戸幕府から送らてきた「葵の紋章」で、アムステルダムの国立海事博物館に、大君の紋章という添え書きが入れられて保管されています。実際に引き揚げられた紋章は原案と微妙に異なっており、どうやら、ヨーロッパで普及していたハートマークと間違って作成された様です。 』
開陽丸記念館・1階
開陽丸記念館2階から1階へ降りるための階段には「昇降機」が設置されていました。
1階には、「武器兵器・装備」、「収蔵品」、「開陽丸の発掘調査についてのパネル」などの展示のほか、「砲弾重量体験」・「帆船操作体験」・「保存処理体験」と各種体験コーナーがあります。
『 測量の方法 説明板より
測量により遺物密集区域を定め、その範囲を改定に表示することとした。海中は透明度が良くないため、防波堤の上に測量起点を設定して、陸上の測量方式を応用することになった。
測量海域については、A地区は10mのメッシュを組む。また、B地区は土砂の堆積があまりにも多いので、浚渫(しゅんせつ)作業前は50mおきにブイを設置することとした。 』
『 文化財としての発掘 説明板より
昭和50年から始まった引揚げ作業に先だって、6月に初めての「開陽丸発掘調査委員会」が江差で開かれた。開陽丸の発掘調査は、北海道の歴史の証であることや我が国初の「水中考古学」としての意義が確認され、事業の成功が決意された。
会議に引き続いて、待望のA地区の調査が開始されたのである。作業は最初に「遺物密集区域」を設定し、改装の刈り取りから水中遺跡の測量、砂の除去や遺跡の記録、そして遺跡の引揚げと進められた。
「水中考古学」
考古学とは地上に記された僅かな痕跡や埋れていた遺跡を通して、人間の歴史を知ろうとする学問です。
したがって陸上でも海中でも調査方法自体が変わることはありませんが、使用する器材や環境は大きく異なります。1990年第二は、諸外国で次々に水中考古学協会が設立され、考古学者だけでなく地質学、海洋学、歴史学等各関連分野の研究者が集まり、多角的な研究で成果を挙げています。欧米では海軍の協力や各種団体の資金援助で活発化していますが、我国では水中考古学という言葉さえ理解されていないのが現状です。 』
※ ウィキペディアフリー百科事典「開陽丸」、「海の駅ネットワーク事務局ホームページ 」、「江差町役場 観光ポータルサイト」、開陽丸青少年センターサイト開陽丸記念館」を参考にさせて頂きました。
ご訪問頂きありがとうございました。
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