『宗谷本線駅巡り』-塩狩駅-
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今回は、「塩狩(しおかり)駅」(上川郡和寒町字塩狩)です。
前回紹介した「蘭留(らんる)駅」から国道40号線を約6㎞ほど北上すると「塩狩峠」(標高263m)があります。その2㎞ほど手前には、「塩狩パーキングエリア」もあります。
塩狩峠には、本駅と「塩狩峠記念館」、「長野政雄顕彰碑」があります。また、駅舎へ向かう入口の所には「塩狩ヒュッテユースホステル」もあります。
まず初めに、「和寒町」を簡単に紹介します。旭川市の北になり、名寄盆地の南端で、丘陵地が多いです。比布町との境には「塩狩峠」があります。西を「幌加内町」と接していて、冬の冷え込みが厳しく最低気温-30度になることもあります。
そんな寒い朝に、町民の皆さんが「わっ、さむ!」と叫んだので「和寒町」と名付けられたかどうかは分かりませんが(すいません、つまらないダジャレでした)、日中でも-21.2℃までしか上がらなかった記録(1985年1月24日)があり、隣の幌加内町と並んで冬の寒さが厳しい地域です。
産業は農業が中心です。戦前は除虫菊の栽培が盛んでしたが、寒冷地用の米ができてからは田園に変わりました。カボチャが作付面積で日本一、雪の下で冬を越させる「越冬キャベツ」で知られています。また、キノコの栽培も盛んです。
観光スポットとしては、塩狩峠周辺、南丘森林公園周辺、三笠山自然公園周辺が挙げられます。全日本玉入れ選手権、競技玉入れの発祥の地でもあります。
では、本題の「塩狩駅」の紹介に戻ります。本駅の大まかな成り立ちです。
・1916年(大正5年):鉄道院(鉄道省の前身)宗谷線の「塩狩信号所」として設置される
・1919年(大正8年):線名が「宗谷本線」に改称される
・1924年(大正13年):「塩狩駅」に昇格し、旅客荷物取扱いが開始される
・1949年(昭和24年):日本国有鉄道に移管される
・1984年(昭和59年):荷物取扱いが廃止される
・1986年(昭和61年):無人化される
・1987年(昭和62年):国鉄分割民営化によりJR北海道に継承される
2面2線の千鳥式ホームをもつ地上駅(無人駅)です。木造の駅舎があります。両ホームの連絡は、構内踏切により行われます。
「塩狩峠一目(いちもく)千本桜」について
駅舎の線路を挟んで向かい側には、桜の名所「塩狩峠一目(いちもく)千本桜」があります。塩狩峠は昔から桜の名所として有名です。
5月中旬頃には約1600本のエゾヤマザクラで峠一面が覆われます。その頃にはJRの臨時列車(塩狩峠さくらノロッコ号)も運行されるそうです。
尚、「塩狩峠一目(いちもく)千本桜」について、詳しくは「和寒町産業振興課のホームページ」等をご覧ください。
「長野政雄顕彰碑」について
塩狩駅へ入っていく道の入口付近に建立されています。1909年(明治42年)に塩狩峠付近で、旅客列車の客車最後尾の連結器が外れ客車が暴走しかけるという事故が起きました。
乗り合わせていた鉄道院(国鉄の前身)の職員で、キリスト教徒でもあった長野政雄氏が客車の前に身を投じ暴走を止めました。長野氏は車輪の下敷きとなり殉職しましたが、他の乗客の命は救われました。
後に、作家・三浦綾子氏の小説「塩狩峠」の主題となった出来事です。
「塩狩峠記念館」について
三浦綾子氏の旧宅を復元し、小説・映画「氷点」、「塩狩峠」の資料等が展示されています。
昭和30年代に三浦夫妻が執筆活動をしていた部屋の様子が再現されているそうです。 塩狩峠をお通りの際には、立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
尚、詳しくは「和寒町産業振興課のホームページ」等をご覧ください。
ご訪問頂きありがとうございました。
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