スポンサーリンク

近藤重蔵道路開削の碑 こんにちは、ご訪問頂きありがとうございます。今回は、「近藤重蔵道路開削の碑(こんどうしげぞうどうろかいさくのひ)(広尾町))」を紹介します。

           (訪問日:2019年(令和元年)9月下旬)

 以前紹介しました「「フンベの滝」からおよそ7㎞くらい南に進んだ所の右側(山側)に今回紹介する「近藤重蔵道路開削の碑」があります。

近藤重蔵道路開削の碑 近藤重蔵道路開削の碑

 私のロードマップには道路の海側にその印が出ていたので、「海側、海側!」と思いながら走っていたのですが、それらしき物が全然見当たらないまま「目黒地区」まで行ってしまいました。

近藤重蔵道路開削の碑         近藤重蔵道路開削の碑

 来た道を戻って再度探すのも時間がもったいないので、「帰り道でもう一度探して寄って行こう」と思い直しました。

近藤重蔵道路開削の碑 近藤重蔵道路開削の碑

 そんな訳で、ここには「百人浜、豊似湖」からの帰り道で、やっと見つけて寄って来た、という次第です。

 「近藤重蔵」という人について、私はここに立ち寄るまでは全く知りませんでした。

近藤重蔵道路開削の碑 近藤重蔵道路開削の碑

 

 そこで、いろいろ検索して調べてみると、「北前船・商人の高田屋嘉平(たかだやかへい)」や「間宮海峡の間宮林蔵(まみやりんぞう)」、「日本地図の伊能忠敬(いのうただたか)」諸氏と同じ時代に生き・活躍された方ということが分かりました。

近藤重蔵道路開削の碑 近藤重蔵道路開削の碑

『     近藤重蔵 蝦夷地山道開削二百年記念       (標示板より)

 江戸幕府蝦夷地探検の別働隊として近藤重蔵守重が率いた一行は、寛政十年(一七九八)四月江戸を出発、六月にトカチ(広尾)に到着、海岸の嶮難(けんなん)に九死に一生を得、艱難(かんなん)に耐え国後(くなしり)、択捉(えとろふ)島に渡り七月択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を建て日本領土であることを宣言した。
 帰途十月、トカチに立ち寄り、海岸の嶮(けん)に山道を開削するために資を投じ、アイヌ六十八人を使い、ルベシベツからビタタヌンケの間約三里(十キロ)に山道を開削した。
 後世の史家は、松前藩治下にあっての重蔵の決断を「その果断、実に蝦夷地道路開削の嚆矢(こうし)として讃えている。
工事の模様を記した「山道開発之記」『写』(弘化四年=一八四七)、寛政十年下野源輔(しもつけげんすけ)(助)=木村謙次の録した「東蝦新道記」(とうかしんどうき)(万延元年=一八六〇、函館奉行再せん)の彫字板がそれぞれ広尾町の禅林寺、十勝神社に所蔵されている。
 重蔵は文化四年(一八〇七)まで実に五回に亘る蝦夷地探検を行い、その著述も多い。
重蔵は明和元年(一七七一)江戸に生まれ、遊島聖堂の学問試験に合格、長崎奉行手付(てつけ)、関東郡代出役(ぐんだいでやく)を経て蝦夷地探検にあたり、文化四年(一八〇七)幕府書物奉行(しょもつぶぎょう)の任ぜられ、後、大坂弓奉行を経て文政四年(一八二一)小普請(こぶしん)入り、息子富蔵の殺傷事件の咎(とが)で滋賀県大溝藩(おおみぞはん)(高島町)にお預けとなり、文政十二年(一八二九)雷鳴とどろくなかに死亡した。時に五十九歳。
 この山道はその後トカチ場所、ホロイズミ場所請負人により補修が繰り返され、明治に至り海岸道に隧道ができ、大正、昭和と、山道とともに併用され、昭和九年(一九三四)黄金道路が完成、開通するまで利用された。
 本年、近藤重蔵、蝦夷地探検道路開削二百年の記念にあたり、協賛会を設立し一般の浄財をいただき本碑を建立することになりました。
              平成十年九月二十日
                           近藤重蔵 蝦夷地山道開削二百年記念事業協賛会    』

 江戸末期から明治にかけての激動の時代に一事を成した錚々たる人物ばかりで、これは次の「NHK大河ドラマ」の主人公にしても面白いドラマが描けるのではないか、と思いました。

史跡 五郎右ェ門隧道 史跡 五郎右ェ門隧道

『     山道と黄金道路                 (標示板より)
      史跡 五郎右ェ門隧道

寛政十年(一七九八年)江戸幕府蝦夷地巡察隊の近藤重蔵等が国後、択捉島へ渡り、択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を建て、日本領土であることを宣言した。帰途、ルベシベツからビタタヌンケまで約三里(十キロ)の山道を開削し、通行の人々の難渋を救った。釧路、根室への通行は東蝦夷地と云われる日高、十勝の海岸を通らなければならず困難を極めた。その為、翌年の寛政十一年には様似山道、猿留山道が開削され、この三つの山道が明治の中頃まで日高と十勝を結ぶ唯一の道路として利用されていた。
明治十九年(一八八六年)に北海道庁が設置され、同二十年には様似山道下、二十四年には猿留山道下と、二十五年にはルベシベツ山道下である広尾町トモチクシ(現地名、宝浜トンネル付近)、チカプウシ(干場トンネル付近)ルベシベツ(かえる岩付近)の三ヶ所に発破を用いたトンネルが開削され、海岸の通行が可能になり、波による遭難者はいなくなった。これらのトンネルは現在の黄金道路(昭和二年着工)の前身であり、そのトンネルの開削を担当したのが浦河の田中五郎右ェ門(一八五六年福井県武生市生れ)で、五郎右ェ門隧道と呼ばれる由縁である。当時は削岩機もなく、ここでは
鉄鎚を用いて岩盤に鑿(のみ)を打ち込み、発破を仕掛けた条痕が確認されており、発破を用いた工法技術は北海道道路史上初めてであり、特筆さるべき文化財と云える。

         設 置   平成十年(一九九八年)九月二十日   

         設置者   広尾町教育委員会・広尾町郷土研究会寄贈者  

         札幌市   田中克明・服部律子                                  』

 ここには、「近藤重蔵道路開削の碑」の他にも「五郎右エ門隧道(ごろうえもんずいどう)」や「殉職慰霊碑」も建立されていました。

殉職慰霊碑 殉職慰霊碑

※ ウィキペディアフリー百科事典「近藤重蔵」「近藤富蔵」「文化露寇」を参考にさせて頂きました。

ご訪問頂きありがとうございました。

 黄 金 道 路 ⇦⇦⇦ 今     回 ⇨⇨⇨ 百  人  浜

※青字部分をクリックすると、そのページが表示されます。

※これまで掲載した記事をご覧いただくには、「ホーム」ページの「インデックス」をご利用ください。

スポンサーリンク