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札的駅    札的駅

 今回は『札的(さってき)駅』です。駅名の由来はアイヌ語の『サッテク・ナイ』で、意味は『やせる川』です。この辺りの地域は里山が近くに迫っていて石狩川方向に緩やかな傾斜地になっています。そのため、雨量の少ない時期には川の水量もぐっと減ってしまうためにそんな名前がついたのかもしれません(あくまでも私見です)。

 小さな待合室の小屋と1面1線のホームがあるだけの駅です。周囲には国道沿いに少しの民家と田や畑が広がっています。近くには『札的内川』が流れていて、その流れは以前に紹介しました『新沼』につながっています。

 この札的駅の近くには『坂本龍馬家の墓』があります。そこで、ここでは四国高知県の坂本家と北海道浦臼町との関係を紐解いてみることにします。調べてみますと、1893年に高知県から武市安哉らが浦臼町札的に入植し『聖園農園』を創設しました。

札的駅  札的駅

 北見開拓を目指していた坂本直寛(龍馬の甥)が協力を求め、1896年『聖園農園』に立ち寄りました。北見開拓の『北光社』の中心人物となり1897年に北見に到着した直寛でしたが、開拓主導を1年程で切り上げ家族を連れて再び聖園農場に戻りました。そこで武市氏の急死により農場を継承することになり浦臼沼の北側に移住しました。

 1898年(明治31年)の洪水に際して、直寛はその被害者救済に尽力しました。上京し内務大臣板垣退助に陳情し救済金を受けました。石狩川の根本的な治水を推進するため『石狩川治水期成会』を設立し運動した結果『石狩川治水調査会』が設立され、石狩川の治水が動き出すことになりました。

札的駅  札的駅

 1899年坂本龍馬の養嗣子坂本直(龍馬の姉の子であり、海援隊の中心人物)の妻・留と長男坂本直衛が直の死去により高地から直寛のもとに移住してきました。母子は石狩川の渡船場近くに駄菓子屋を営み町の発展に尽力しました。浦臼町にある『坂本龍馬家の墓』はこの二人の墓となっています。『坂本直寛屋敷跡』も残っているそうです。

 坂本直寛の孫・直行は、坂本家8代目の当主で山岳画家です。十勝の広尾町に入植し、十勝の自然を描きました。帯広銘菓『六花亭』の包装紙(十勝六花(エゾリンドウ、カタクリ、ハマナシ等)といわれる花々が描かれている)のイラストは直行の作品だそうです。

 そんな歴史に触れられる『郷土資料館』や『聖園教会』等の歴史的遺産が国道275線沿いにありますので、お近くをお通りの際には是非お立ち寄りください。

ご訪問ありがとうございました。

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