『道南の旅』-五稜郭タワー・五稜郭公園-

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五稜郭公園へ こんにちは、ご訪問頂きありがとうございます。

 今回は、「五稜郭タワー・五稜郭公園」(五稜郭タワー:函館市五稜郭町43-9、五稜郭公園:函館市五稜郭町44)を紹介します。

         (訪問日:2019年(令和元年)7月下旬)

 前回では、函館山ロープウェイ麓駅の近くに明治時代の頃の物と思われる建築物と噴水、展望公園などがある「元町配水場」を見学しました。

 函館観光で代表的な観光地というと夜景スポットである「函館山展望台」と並んで「五稜郭(ごりょうかく)・五稜郭タワー」がありますが、元町配水場を見学した翌日にはいよいよその五稜郭へと向かいました。

五稜郭へ 五稜郭へ

↑ 五稜郭の絵が描かれたマンホールの蓋、函館らしいです(画像左) 「亀田川」に架かる橋から五稜郭タワーを見えてきました(画像右)

五稜郭へ 五稜郭へ

   五 稜 郭

 五稜郭は江戸時代末期に江戸幕府が蝦夷地の箱館(現・函館市)郊外に築造した稜堡式の城郭です。

 箱館開港に伴い函館山の麓に置かれていた箱館奉行所の移転先として築造されました。

 1855(安政2)年に箱館奉行所で機械製造・弾薬製造に務めていた武田斐三郎(たけだあやさぶろう)がフランス軍艦の艦長から指導を受け大砲設計図や稜堡の絵図面を写し取りました。

五稜郭タワー 五稜郭タワー

↑ 五稜郭タワーの下に着きました、「Welcome」入口です

五稜郭タワー 五稜郭タワー

↑ 入口からちょいと離れて仰ぎ見る五稜郭タワー、「首が痛い!」(画像左)

五稜郭タワー 五稜郭タワー

 武田はこの絵図面をもとに五稜郭と弁天台場の設計を行いました。

 1857(安政4)年に五稜郭の製造を開始、1864(元治元)年に竣功しました。

 築造中は「亀田役所土塁(かめだやくしょどるい)」とも呼ばれ、この辺りは元は湿地でネコヤナギが多く生えていた土地であったことから「柳野城(やなぎのじょう)」の別名を持っています。

 完成から2年後の1866(慶応2)年に江戸幕府は崩壊し、鳥羽・伏見の戦いを皮切りに「戊辰戦争(ぼしんせんそう)」が始まりました。

五稜郭タワー 五稜郭タワー

五稜郭タワー 五稜郭タワー

『   「トンボロ」がもたらした函館の歴史    (説明板より)
夜景で有名な函館の街は函館山から北東方向に扇形に広がっています。これは、島であった函館山と対岸の陸地が海流に運ばれた土砂で陸続きになった「陸繋砂州(りくけいさす)=トンボロ(tombolo)」という地形の上に街が出来たためです。砂州に囲まれて波が静かな函館山の麓には、蝦夷地産物の交易のみなととして人々が移り住み、町が出来ました。
安政元年(1854)の日米和親条約によって開港場となった函館の歴史や五稜郭の誕生、そして現在の夜景の美しさも。凾館山と「トンボロ」によって形づくられた天然の良港という地形によるものと言えます。   』

五稜郭タワー 五稜郭タワー・大砲

『   五稜郭築造当時の「箱館」        (説明板より)
床下に設置している模型は、五稜郭がほぼ完成し、郭内に建設された新しい役所が業務を開始した元治元年(1864)頃の函館の姿を再現したものです。
この年の函館の人口は12,206人、戸数は2,804戸(「函館市史」)との記録があり、市街地は函館山の麓から港に面した狭い地域に密集しています。
その他、現在の函館とは以下のような違いがあります。
■函館山の木々は燃料や建築資材として伐採され、山肌が露出しています。
■津軽海峡に面した海岸には、広大な砂丘が広がっています。
■生活用水確保などのために安政6年(1859)に造られた「願乗寺川」。
■五稜郭の北方には、役人の屋敷や「同心長屋」などの住宅街が建設されました。
■港の入口には、大砲を備えた要塞「弁天岬台場」が築造されていました。
■蝦夷地警備のために派遣された津軽(弘前)藩と南部(盛岡)藩が建設した「陣屋」。  』

五稜郭タワー・大砲 五稜郭タワー・大砲

五稜郭タワー・大砲 五稜郭タワー・大砲

↑ こちらは1階アトリウムの内外の様子

武田斐三郎の像 武田斐三郎の像

↑ 武田斐三郎氏の像です

榎本武揚の像 榎本武揚の像

↑ 榎本武揚氏の像です

武田斐三郎・榎本武揚の説明板 土方歳三の像

『   五稜郭の設計者
    武田斐三郎(1827・1880)像      (説明板より)
伊予・大洲藩出身。江戸や大阪で洋学を学んだ後、通訳として蝦夷地へ派遣される。箱館諸術調所教授として洋学による人材育成に当たると同時に五稜郭や弁天岬台場の建造など箱館の防備強化に貢献する。江戸に戻り開成所教授となり、維新後も陸軍士官学校教授など、生涯を通じて教育に尽くした。

    旧幕府脱走軍 総裁
    榎本武揚(1836・1908)像
幕臣。「長崎海軍伝習所」で航海術を学んだ後オランダに留学して国際法・器械学などを修める。大政奉還後、旧幕府艦隊を率いて江戸を脱走。五稜郭を占領するが新政府軍の総攻撃により敗北、投獄。赦免後は開拓使に出仕。逓信・文部・外務・農商務の各大臣を歴任した。   』

土方歳三の像 土方歳三の像

↑ 土方歳三氏の像です、どうしても位置的に逆光となってお顔がハッキリ見えないのが残念です、イケメンです!

土方歳三の像の説明板 

『   「五稜郭に立つ 土方歳三」     (説明板より)
 天保6年(1835)、武州多摩の豪農の家に生まれた土方歳三は、文久3年(1863)幕府が募集した浪士隊に近藤勇らと参加し、尊王攘夷の嵐が吹き荒れる京都で新選組を結成、「池田屋事件」などの討幕派浪士に対する徹底した取締まりと同時に、「鬼の副長」として新選組隊士を厳しく統率し恐れられた。

 鳥羽伏見の戦いや甲州勝沼の戦いでの敗北、さらに新選組局長であり盟友である近藤勇が処刑された後も、宇都宮、会津と戦い続け、榎本武揚率いる旧幕府艦隊に仙台で合流し蝦夷地に渡った。ここ五稜郭を本拠地とした旧幕府軍による暫定政権、いわゆる「蝦夷共和国」では、陸軍奉行並・箱館市中取締の要職を務めた。
 箱館での土方は、「人に慕われることは、あたかも赤ん坊が母親を慕うかのようだ」とつたえられるほど温厚で、明治2年(1869)春からの新政府軍による攻撃に際しては、自ら最前線で兵を励まし奮戦し、押し寄せる敵を撃退した。
 しかし明治2年5月11日、新政府軍の総攻撃により孤立した友軍を援護するために出撃したが、一本木関門で銃撃を受け35年の生涯を閉じた。
 
 この像は、旧幕府軍が蝦夷地から一時的に新政府の勢力を駆逐し、暫定政権を樹立した明治元年12月15日、戦場から凱旋した土方歳三が、乗馬用の鞭を片手に五稜郭に降り立った姿を再現したもので、函館出身の彫刻家、小寺眞知子さんの作品です。
 また展望2階には、小寺さん制作による座像「土方歳三之像」が設置されております。

   ■五稜郭に立つ 土方歳三■
      高さ 像本体 約220cm(等身の約1.2倍)  材質 像本体 青銅(ブロンズ彫像)
         台 座 約103cm            台 座 黒御影石

制作者 小寺眞知子氏(1950~2012)   』

『    開港と箱館奉行の復活       (説明板より)

    津田 近江守
    Tuda Ouminokami・1863
生年不詳。名は正路。通称は半三郎。1856(安静3)年目付に任命され、後に外国貿易取調掛となった。1858(安静5)年6月露使節応接掛となり、翌月の堀織部正らと日露修好通商条約調印の任にあたり、同年10月の箱館奉行に転任した。1859(安静6)年、国際貿易港として開港する箱館で、ロシア船に出向き話し合いするなど、港則を定めて入港外国船取り締まりを行った。1860(万延元)年9月江戸勤めとなり、12月に外国奉行を兼任してアメリカ施設との恋賞に臨んだ。1862(文久2)年、箱館奉行を免じられ、同8月外国奉行から勘定奉行に転任し、翌年7月大目付に任命されたが、翌月に死去した。

    堀 織部正 ほりおりべのしょう
    Hori Oribenosyou 1818-1860
1818(文政元)年、江戸旗本の堀家に生まれる。通称は、利熙(としひろ)省之助。1852(嘉永5)年に小姓組徒頭、翼面目付となった。1854(安政元)年に松前蝦夷御用掛兼務となり、来た蝦夷を視察し、同年7月に箱館奉行に任命された。堀は、蝦夷地調査を終えて箱館に帰着し、箱館防御・警備のために弁天岬台場(砲台)の設置と、奉行所を内陸亀田の地へ移転が必要であることを主張した。併せて、奉行所の周囲を西洋陣法による
土塁で取り囲むこと、即ち、五稜郭の築造を提唱した。この後、1858(安政5)年に外国奉行に任命され、翌年には神奈川奉行を兼任した。1860(万延元)年に神奈川奉行を免職となり、同年11月6日老中と激論の後に自刃し、42歳で没した。   』

村垣 淡路守の説明板 竹内下野守の説明板

『   村垣 淡路守 むらがきあわじのかみ      (説明板より)
    Muragaki Awadinokami 1813-1880
1813(文化10)年、江戸生まれ。名は範正、通称は与三郎。1831(天保2)年、小十人格庭番、1845(弘化2)年に細工頭、1854(安政元)年に勘定吟味役となった。海防掛および蝦夷地掛として同年3月より蝦夷地・樺太巡視を行った。その後、露使応接掛として伊豆下田に赴任。後に、箱館表御用、内海台場普請、大筒鋳立大船其他製造御用、東海道筋川々普請掛などを歴任。1856(安政3)年7月に箱館奉行に任命され、先任の堀織部正とともに蝦夷地の調査や開拓事業を推進した。1858(安政5)年に外国奉行となり、翌年に神奈川奉行兼務となった。その後、1860(万延元)年、日米修好通商条約批准書交換のための幕府使節団副使となり、太平洋航路で渡米した。帰国後は、日普修好通商条約締結に、日本側全権として調印に臨んだ。1863(文久3)年に作事奉行に転じ、翌年には西の丸守居、若年寄支配寄合となった。1880(明治13)年に68歳で没した。   』

『   竹内下野守 たけうちしもつけのかみ     (説明板より)
    Takeuti Shimotukenokami 1807-1867
    箱館奉行

1807(文化4)年江戸生まれ。名は保徳。通称清太郎。1843(天保4)年勘定組頭格、1852(嘉永5)年勘定吟味役を歴任。1853年のペリー来航後に、内海台場普請掛、大筒鋳立掛、アメリカ施設応接掛などを勤めた。1854(安政元)年、日米和親条約附録13条に全権として調印後の6月、箱館奉行に任命された。竹内は、幕府直轄地となった箱館および蝦夷地の取り締まりや警備を行うため、堀織部正らの意見を協議し、弁天岬台場の設置と箱館奉行所の亀田移転(五稜郭築造)を幕府へ上申した。その後、1861(文久元)年に勘定奉行と外国奉行を兼任となり、同年12月に遣欧使節として渡欧した。帰国後の1864(元治元)年、大坂町奉行に就任したが着任せずに西丸留守居に退いた。1867(慶応3)年に60歳で没した。   』

中島 登の説明板 中島 登の説明板

『   中島 登 なかじまのぼり       (説明板より)
    Nakajima Nobori 1838-1887
1838(天保9)年、武州多摩郡小田野(現・東京都八王子市)うまれ。1864(元治元)年、新選組に入隊し、伍長を勤めた。土方歳三や島田魁ら新選組隊士と宇都宮・会津戦争を転戦した後、蝦夷地へ渡り、箱館戦争に参戦した。箱館では弁天台場に配置。1869(明治2)年5月15日に降伏後、弁天台場での謹慎中に新選組隊士などの肖像を「戦友姿絵」として描いた。翌明治3年に赦免されて多摩に帰還。1887(明治20)年死去。享年50歳。   』

島田 魁・松岡 磐吉説明板 

『   島田 魁 しまだかい      (説明板より)
    Shimada Kai 1828-1900
1828(文政11)年、濃州厚見郡雄綱村(現・岐阜県岐阜市)生まれ。1863(文久3)年、新選組に入隊し、調役並監察、二番組伍長を勤めた。新選組一番の巨漢として知られ、箱館戦争では、土方歳三の松前攻略に同行するなど各地を転戦。1869(明治2)年5月11日、弁天台場救助のため土方歳三が一本木関門を突破後に、銃弾を受けて戦死した経緯など、新選組の出来事を『島田魁日記』に記した。5月15日弁天台場で降伏し、名古屋に送られた。1900(明治33)年死去。享年73歳。

    松岡 磐吉 まつおかばんきち      (説明板より)
    Matuoka Bankichi -1871
生年は不詳。長崎海軍伝習所で航海術を学び、卒業後幕府に仕え、1860(万延元)年の咸臨丸渡米時には測量方を勤めた。1868(明治元)年に軍艦頭並となり、旧幕府脱走海軍艦「蟠龍(ばんりゅう)」の艦長として箱館戦争に参戦した。翌年5月11日の新政府軍艦朝陽を撃沈させた。その後に蟠龍も操船不能となり、松岡も弁天台場に逃れて降伏し、東京に護送された後、1871(明治4)年に病死した。   』

土方歳三の説明文 武田斐三郎の説明文

『   土方歳三 ひじかたとしぞう     (説明板より)
    Hijikata Toshizou 1835-1869
    蝦夷地仮政権陸軍奉行並
    箱館市中取締
1835(天保6)年、武州多摩郡石田村(現・東京都日野市)生まれ。1863(文久3)年、幕府兵の募集に参加し上京。同郷の近藤勇と新選組を結成し、復調を勤めた。会津藩の指揮下、京都の警備に活躍したが、鳥羽・伏見の戦いに敗れ、会津や仙台を転戦の後、旧幕府脱走軍に合流し、蝦夷地で箱館戦争に参加。1868(明治元)年11月の松前・江差攻略を果し、蝦夷地仮政権陸軍奉行並となり、翌1869年の宮古湾奇襲攻撃や大野二股口の戦闘に参加した。同年5月11日、弁天台場救助のため一本木関門(現・若松町付近)の突破をはかり、箱館市中へ赴く途中で銃弾を受けて戦死した。享年35歳。   』

 

『   武田 斐三郎 たけだあやさぶろう     (説明板より)
    Takeda Ayasaburo 1827-1880
    箱館奉行支配諸術調所教授役/span>
1827(文政10)年、伊予国喜多郡中村(現・愛媛県喜多%A9生まれ。名は成章、斐三郎号は竹塘。大阪で緒方洪庵の適塾で蘭学を学び、江戸では伊東玄朴や佐久間象山から兵学や砲学などを学んだ。1853(嘉永6)年、ペリー提督裏が来航の際に、出向き調査した。翌1854(安政元)年3月に蝦夷地御用掛の堀織部正に随行し、函館に渡った。幕府から箱館詰を命じられて、機械、弾薬製造の任に就き、弁天岬台場と五稜郭の設計に携わった。また、1856(安政3)年に箱館諸術調所を設置して教授役に就く一方で、和製大砲製造目的に古武井に溶鉱炉を建設した。さらには、門下生とともに西洋型帆船「亀田丸」航海測量の一方で露領ニコライスキーまで公開して交易を行なうなど多方面にわたり活躍した。この後、1864(元治元)年江戸に帰り、開成所教授に就き、1871(明治4)年兵部省に出仕して、砲兵大佐、士官学校学科受理を歴任した。1880(明治13)年に54歳で没した。

武田斐三郎の業績 1
五稜郭の設計
箱館奉行の命により、武田斐三郎が1855(安政2)年に箱館に入港したフランス軍艦コンスタンティーン号の将官から教授を受けた城塞の図面をもとに、多少の修飾を加えて星形五角形の城塞設計図を作成した。設計初期の図で、五稜郭の稜堡塁の外側に半月堡と呼ばれる5か所の堡塁が描かれるが、工事期間短縮と予算削減のため、実際には半月堡塁は1か所に身が築造された。

武田斐三郎の業績 2
弁天岬台場の設計
五稜郭と同様に箱館奉行の命により、武田斐三郎がフランス軍艦の将官から教授を受けた西洋式砲台の設計図を作成した。弁天岬台場は、岬の突端に築造された要塞で、堅固な石垣で囲まれた不等辺六角形の土塁上には、80斤や24斤カノン砲が設置され箱館港に入港する外国船の攻撃に備えるものであった。

武田斐三郎の業績 3
古武井溶鉱炉の築造
箱館奉行は、弁天岬台場および五稜郭が完成した際に、和製の大砲を設置して箱館の防備を行う計画のもと、武田斐三郎に溶鉱炉の設計と製造を命じた。1856(安政3)年に、武田は女那川に煉瓦製造所と海岸の砂鉄が豊富な古武井に溶鉱炉を製造した。完成した溶鉱炉で生産された銑鉄の成績が芳しくなく、1863(文久3)年6月の暴風雨により炉が大破したため、そのまま放置されて製鉄事業は結局のところ失敗に終わった。   』

前島 密・名村 五八郎の説明文 前島 密・名村 五八郎の説明文

前島 密・名村 五八郎の説明文 

『   前島 密 まえじまひそか      (説明板から)
    Maejima Hisoka 1835-1919
1835(天保6)年、越後国谿頸城郡下池部村(現・新潟県上越市)生まれ。1847(弘化4)年、江戸で医学・蘭学・英語を学び、1858(安政5)年、航海術を学ぶために箱館に渡る。翌年に諸術調所に入所した。1865(慶応元)年に薩摩藩の洋学校の蘭学講師に就任。翌慶応2年に幕臣前島家の養子となり、家督を継いだ。1869(明治2)年、明治政府の民部省・大蔵省に出仕し、租税権正、駅逓権正兼任となり、郵便制度視察と鉄道建設借款契約締結のためイギリスへ渡った。1871(明治4)年に帰国し、駅逓頭に任命されて、郵便制度創設に尽力した。この後、駅逓局長、第1回内国勧業博覧会審査官長、元老院議官、内務省駅逓総監などを歴任、1919(大正8)年に84歳で没した。

    名村 五八郎
    Namura Gohachiro 1826-1876
1826(文政9)年、長崎のオランダ通詩一家の生まれ。語学の天分に恵まれ、蘭語・英語・露語・関学にも精通していたされる。1854(安改元)年、蝦夷地出向を命じられ、蝦夷地御用掛の村垣淡路守と堀織部正の蝦夷地・樺太調査の通訳・翻訳の任に就いた。その後、語学の才能を認められ箱館竿金を命じられ、イギリス・アメリカ・ロシアなどの領事との通訳や翻訳業務を行った。1860(万延元)年、日米修好通商条約批准書交換のためのアメリカから派遣使節団の首席通詞として随行し、大任を果たした。アメリカから帰国後の1861(文久元)年5月、箱館奉行が大町の運上所構内の教学所に、英語稽古所を創設し、名村は英語の教授役として通詞の養成にあたった。1865(慶応元)年、勘定格通弁御用頭取に任命され江戸詰となった。1876(明治9)年に49歳で没した。   』

五稜郭タワー内の様子 五稜郭タワー内の様子

五稜郭タワー内の様子 五稜郭タワー内の様子

 戊辰戦争の戦闘の一つで新政府軍と旧幕府軍との最後の戦い{1868(慶応4・明治元)年から1869(明治2)年)でした。

 箱館五稜郭を中心に榎本武揚(えのもとたけあき)ら旧幕臣が臨時政府をつくって官軍と戦いました。

 榎本らの降伏により終結し鳥羽・伏見の戦いから続いた幕府側の抵抗はすべて終わることになりました。

 明治に入ると郭内の建物は兵糧庫1棟を除いて解体され、陸軍の練兵場として使用されました。

   五稜郭タワー

 1964(昭和39)年に五稜郭築城100年を記念して南隣に高さ60mの五稜郭タワー(初代)が開業しました。

 1970(昭和45)年から毎年5月に「箱館五稜郭祭」が開催され箱館戦争の旧幕府軍・新政府軍に扮した「維新パレード」(土方歳三コンテストは令和6年で終了となり、この催しについても終了を検討中とのこと)や、土方歳三の物まねを競う「土方歳三コンテスト」(この催しは2024(令和6年をもって終了、))などが行われています。

 現在の「五稜郭タワー」は二代目のタワーです。

 初代タワーは1964(昭和39)年4月に着工され、80m級タワーも考えられたが近くに函館空港があることから60m(展望台は45m)になり12月に開業されました。

五稜郭タワーからの眺望 五稜郭タワーからの眺望

↑ これが「半月堡(はんげつほ)」、初めは他の所にもたくさん作る予定だったそうですが予算がなくてここ一か所だけになったそうです(画像左) 他の所はこれ「稜堡(りょうほ)」(画像右)

※ 以下の動画には風切音や機械音などの雑音が入っていますので、視聴に際しては音量に十分ご注意ください。

五稜郭タワーからの眺望 五稜郭タワーからの眺望

五稜郭タワーからの眺望 五稜郭タワーからの眺望

五稜郭タワーからの眺望 五稜郭タワーからの眺望

↑ 所々の窓に見えているものの名前が紹介してあるシートが付いていました「~なるほど、あれが〇〇か!」

五稜郭タワーからの眺望 五稜郭タワーからの眺望

↑ 近くに函館空港があるので時々旅客機の姿を見かけることができました、急いでパチリ! 上手く撮れたかな?

 1990(平成2)年に箱館空港の滑走路延長に伴い高さ制限が107mに緩和されたことを契機に新タワーの検討が始まりました。

 初代タワーは眺望が低く五稜郭の一部分しか見えず、商業スペースも小さく休憩し辛い面などがありました。

五稜郭タワーからの眺望 五稜郭タワーからの眺望

五稜郭タワーからの眺望 五稜郭タワーからの眺望

↑ 箱館奉行所庁舎、屋根の上に載っているのが「太鼓櫓(たいこやぐら)」で約16.5mの高さ。時を告げたり、港を監視する役割があったそうです

五稜郭タワーからの眺望 五稜郭タワーからの眺望

↑ 土蔵(兵糧庫)・板庫・土蔵3棟並んでいます(画像左)

※ 以下の動画には風切音や機械音などの雑音が入っていますので、視聴に際しては音量に十分ご注意ください。

五稜郭タワーからの眺望 五稜郭タワーからの眺望

↑ 床をくりぬいて塔の下が見えるようになっています(ガラス?アクリル板?入りです)(画像右)

 2004(平成16)年11月に新タワーが着工され2006年(平成18)年3月に竣功し4月から開業しました。

 2006年12月には旧タワーの跡地に「アトリウム」も完成し、年間入場者数は100万人台を数えています。

 タワーの構造としては、塔体は星形で展望台は五角形となっています。

五稜郭タワーからの眺望 五稜郭タワーからの眺望

↑ 上の画像をズームしました

五稜郭タワーからの眺望 五稜郭タワーからの眺望

↑ ここからはすぐ下に半月堡が見えていました(画像左)

五稜郭タワーからの眺望 五稜郭タワーからの眺望

↑ 函館山の頂上に「函館山展望台」と各局の中継アンテナ施設が見えていました、昨日行ってきたばかりです!

五稜郭タワーからの眺望 五稜郭タワーからの眺望

五稜郭の模型 五稜郭の模型

↑ 五稜郭が造られた当時のミニチュア復元模型(1/250)です

 1階はアトリウム、タワーチケットカウンター、売店、床下地形図ディスプレイ「五稜郭築造当時の「箱館」」があります。

 2階は和風レストラン、カレー店、ジェラード店、美術ギャラリーがあります。

 1階アトリウムには植栽やベンチ・ステージの他に土方歳三のブロンズ像があります。

※ 以下の動画には風切音や機械音などの雑音が入っていますので、視聴に際しては音量に十分ご注意ください。

五稜郭の模型 五稜郭の模型 

五稜郭の模型 五稜郭の模型

↑ 築造当時はこんなにたくさんの建物があったんです、解体しちゃってもったいなかった!

五稜郭タワー展望台 五稜郭タワー展望台

『   世界の稜堡式城郭      (説明板より)
五稜郭はヨーロッパで発達した「稜堡式城郭(りょうほしきじょうかく)」をモデルに造られています。この城郭は16世紀頃から、大砲の発達に対抗して考え出されたもので、外敵の襲撃に備えて都市全体を城壁で囲んだ「城塞都市」が各地に造られました。

    セバスチャン・ヴォーバン
戦乱の相次いだこの時代、要塞や城郭の建築を指揮する技術者が重要な存在でした。角国独自に築城技術の改良・研究がなされる中で、フランスのセバスチャン・ヴォーバン元帥(1633~1707)は、雑多であった築城技術を整理・統合し築城理論を体系化しました。彼は生涯を通じて33の新しい要塞を建築し、フランスの国境沿いの100以上の要塞を改良しました。   』

展望台1階の床までは98m、2階床までは90mで、2基のエレベーターで展望台へ上がります。

 展望台は2層からなっていて、特別史跡五稜郭と函館市街を一望できます。

 展望1階には売店、カフェスタンドがあります。

 展望2階には五稜郭に関する展示スペース「五稜郭歴史回廊」、築造当時を再現した「五稜郭復元模型」、ブロンズだ像「土方歳三之像」があります。

五稜郭タワー展望台 五稜郭タワー展望台

五稜郭タワー展望台 五稜郭タワー展望台

※ 以下の動画には風切音や機械音などの雑音が入っていますので、視聴に際しては音量に十分ご注意ください。

   五稜郭歴史回廊

五稜郭歴史回廊01 五稜郭歴史回廊01

『  01 亜墨利加船、箱館来航       (説明板より)
安政元年(1854)、日米和親条約の締結により、幕府は、二百年以上続いた「鎖国」を廃止し、箱館(函館)は翌年3月の開港が決定しました。箱館港の調査のためにやってきたペリー提督と、応接役である松前藩の家老が、軍艦ミシシッピ号の艦上で初めて対面しました。   』

五稜郭歴史回廊02 五稜郭歴史回廊02

『   02 開港場での交流      (説明板より)
開港場となった箱館の町の通りには、買物や散歩をする外国船の乗組員たちが行き交うようになりました。彼らは町の人々と交流し、八百屋で買ったキュウリなどを生でかじりながら歩いたり、木魚を叩いて陽気に踊ったりすることもあったようです。   』

五稜郭歴史回廊04 五稜郭歴史回廊03

『   03 北の大地を拓く箱館奉行     (説明板より)
江戸幕府が箱館と蝦夷地を治めるために任命した箱館奉行は、開拓や産業の育成を目指すと同時に、箱館の防備強化も計画しました。蘭学者の武田斐三郎が、ヨーロッパの「城郭都市」をモデルに考案した新しい要塞の設計図を奉行に説明しています。   』

五稜郭歴史回廊04 五稜郭歴史回廊04

『   04 幕末の高等教育箱館諸術調所      (説明板より)
西欧の学問を教育・研究するための機関「箱館諸術調所」には、日本各地から学問を志す若者が集まりました。教授である武田斐三郎は、航海学、測量術、造船、化学などの専門的な技術と知識を熱心に教え、ここから明治の指導者達が育っていきました。   』

五稜郭歴史回廊05 五稜郭歴史回廊05

『   05 蝦夷地経営の拠点五稜郭築城      (説明板より)
安政4年(1857)、五稜郭の築造工事が始まりました。土木工事や石垣の工事、役所の建築など、各地から集まった職人や多くの労働者の努力により着工から7年後の元治元年(1864)には箱館奉行所が移転、五稜郭は蝦夷地の政治・外交・防衛の中心となりました。   』

五稜郭歴史回廊06 五稜郭歴史回廊06

『   06 旧幕府脱走軍鷲ノ木上陸     (説明板より)
旧幕府海軍の副総裁榎本武揚は、徳川家臣による蝦夷地の開拓を目指して、大政奉還により仕事を失った旧幕府の家臣らを艦隊の乗せて江戸湾を脱走しました。明治元年(1868)10月20日(新暦12月3日)、箱館の北方にある鷲ノ木沖に到着した彼らは吹雪の中で上陸し、五稜郭を目指します。   』

五稜郭歴史回廊07 五稜郭歴史回廊07

『   07 五稜郭入場と箱館占領     (説明板より)
旧幕府脱走軍は箱館への途中で、新政府の軍隊である箱館府兵の攻撃を受けますが、これを打ち破りました。箱館府知事は青森へ退却し、10月26日(新暦12月9日)、無人になった五稜郭を占領した脱走軍は「日の丸」の旗を先頭に、堂々と入城していきます。』

五稜郭歴史回廊08 五稜郭歴史回廊08

『   08 松前攻略・館城の戦い     (説明板より)
箱館を占領した脱走軍は松前藩に平和共存を提案しますが、松前藩は闘う姿勢を見せたため、陸軍を派遣し城下を占領しました。松前藩の新しい砦である館城も脱走軍の攻撃を受け、まな板を盾代わりに奮戦する三上超順ら松前藩兵の激しい抵抗もむなしく攻め落とされました。』

五稜郭歴史回廊09 五稜郭歴史回廊09

『   09 旗艦開陽、枝幸港に沈む     (説明板より)
松前藩を攻撃する陸軍を海から支援するために出撃した旧幕府軍の軍艦「開陽」は、冬の日本海の嵐により江差の港で座礁してしまいました。陸軍を率いて江差に到着した土方歳三が、荒波に砕かれていく「開陽」を見て言葉もなく立ち尽くしています。   』

五稜郭歴史回廊10  五稜郭歴史回廊10

『   10 蝦夷全島平定刈り政権の樹立     (説明板より)
軍艦「開陽」を失いながらも松前藩を打ち破り、全蝦夷地を手にした脱走軍は、12月15日(新暦1月27日)箱館港で百一発の大砲を撃って勝利を祝いました。彼らは入札(選挙)によって、榎下武揚を総裁とする仮の政権を樹立しました。   』

五稜郭歴史回廊11 五稜郭歴史回廊11

『   11 明治新政府軍の反撃開始     (説明板より)
翌明治2年(1869)4月9日(新暦5月20日)、新政府軍の大部隊が日本海側の乙部の海岸に上陸しました。脱走軍に対する反撃が開始されたのです。新政府軍は陸軍を3つに分けて、三方から脱走軍の本拠地である箱館・五稜郭へ向けて進撃を開始しました。   』

五稜郭歴史回廊12 五稜郭歴史回廊12

『   12 一進一退の攻防     (説明板より)
箱館への最短ルートである江差山道では、脱走軍陸軍奉行並みである土方歳三の率いる部隊が陣地を築いて、押し寄せる新政府軍の部隊を迎え撃ち、激しい銃撃戦で撃退しました。しかし新政府軍は他の二つのルートで勝利を収め、増援部隊を加えて五稜郭へ迫ります。   』

五稜郭歴史回廊13 五稜郭歴史回廊13

『   13 箱館総攻撃      (説明板より)
5月11日(新暦6月20日)、函f建てと五稜郭を包囲した新政府軍は、遂に総攻撃を開始しました。箱館山裏側から上陸し崖を登って現れた孫政府軍の急襲部隊により函館の街は占領されてしまいます。これを知った土方歳三は箱館の奪回に向かいますが、銃弾を受けて戦死しました。   』

五稜郭歴史回廊14 五稜郭歴史回廊14

『   14 戦時下の赤十字精神      (説明板より)
新政府軍の一隊が脱走軍の箱館病院にも突入しました。病院長であった高松凌雲は、身動きできない病人やけが人の命を助けるために赤十字精神の大切さを訴えました。新政府軍の薩摩藩兵も患者達を救うことを約束し、この後、高松凌雲を通して脱走軍に降伏を勧めます。    』

五稜郭歴史回廊15 五稜郭歴史回廊15

『   15 五稜郭開城・終戦     (説明板より)
5月17日(新暦6月26日)、榎本武揚ら脱走軍の幹部は、新政府軍の陣地に出頭し亀田八幡宮の神前で降伏を誓いました。翌日彼らは五稜郭を明け渡し、箱館戦争は終結しました。ここに幕末維新の動乱は終了し、明治時代が本格的に動き出すのです。   』

五稜郭歴史回廊16 五稜郭歴史回廊16

『   16 静穏     (説明板より)
箱館戦争の終了後、五稜郭の堀では、冬季間に天然氷の切り出しが行われ、明治4年(1871)には本州へ送られて「五稜郭氷」の名で売り出すほどの産業に育ちました。また大正3年(1914)には公園、昭和27年(1952)には特別史跡に指定され、激動の歴史を静かに伝えています。   』

※ 戊辰戦争(ぼしんせんそう)・・・戊辰戦争の規定は研究者によって様々あるが、その一つの例として「日本の統一をめぐる個別領有権の連合方式と、その否定および天皇への統合を必然化する方式との戦争」がある。1858(慶応4年・明治元年)1月の「鳥羽・伏見の戦い」の勃発に始まり15台将軍徳川慶喜を擁する「旧幕府軍」と、薩摩藩・長州藩を中心とする「新政府軍」で争われた一連の戦争。「江戸城無血開城」「上野戦争」「長岡城の戦い」「会津戦争」と1年以上続き、1869(明治2)年の「箱館戦争」(五稜郭の戦い)で終結した。これにより国内は政府によって統一されあ新しい時代が始まることになりました。

   五稜郭公園

 五稜郭は1871(明治4)年には郭内の建物のほとんどが解体され、明治30年までは明治政府陸軍省の管轄となり練兵場として使用され、その後、1914(大正3)年から「五稜郭公園」として一般開放されました。

 五稜郭公園へ入って行くには、五稜郭タワーの傍にあるまず「半月堡(はんげつほ)」の周囲にある堀に架かる「一の橋」を渡って半月堡に入ります。

 そして、半月堡から五角形をした五稜郭周辺の堀に架かる「二の橋」を渡って五稜郭公園の中へと入って行きます。

 因みに、二の橋を真っ直ぐ進んで公園中央にある「箱館奉行所庁舎」を挟んでその反対側の堀に架かっている橋は「裏門橋」と言いますが、五稜郭の堀を渡るにはこの三つの橋を渡るしかありません。

その五稜郭公園へ     五稜郭公園へ

五稜郭公園へ 五稜郭公園へ

五稜郭公園へ 五稜郭公園へ

↑ まずは半月堡に渡る「一の橋」を渡って行きました(画像右)

『  箱館戦争と特別史跡五稜郭跡      (説明板より)
江戸湾から軍艦8隻と共に脱走した榎本武揚率いる旧幕府脱走軍が箱館に入り、五稜郭を占領したのは、明治元年(1868年)10月。
新政府軍との戦いに敗れ、降伏したのはわずか7ヶ月後のことでした。五稜郭は新政府軍に明け渡され、戊辰戦争最後の戦いとなった。
箱館戦争の終結とともに、長い間続いた封建制度がここで終わりを告げました、日本の新しい時代が始まったのです。  

五稜郭公園へ 五稜郭公園へ

五稜郭公園へ 五稜郭公園へ

『   特別史跡五稜郭跡とくべつしせきごりょうかく    (説明板より)
    昭和27年3月29日指定
 五稜郭跡は、幕末の箱館開港に伴い設置された箱館奉行所の防御(ぼうぎょ)施設で、箱館奉行配下の諸術調所(しょじゅつしらべしょ)教授役で蘭学斜の武田斐三郎成章(たけだあやさぶろうなりあき)により、中世ヨーロッパで発達した城塞(じょうさい)都市を参考に設計された西洋式土塁です。稜堡(りょうほ)とよばれる5つの突角が星形の五角形状に土塁がめぐっていることから五稜郭と呼ばれ、郭内には日本伝統建築の箱館奉行所庁舎とその付属建物20数棟が建てられました。
 安政4年に築造を開始して7年後の元治元年に竣工、同年6月に奉行所が移転して蝦夷地(えぞち)における政治的中心地となりました。その後、明治維新により明治新政府の役所となりましたが、明治元年10月に榎本武揚(えのもとたけあき)率いる旧幕府脱走軍が占拠、翌明治2年5月に終結する箱館戦争の舞台となりました。箱館戦争後は、明治4年に開拓使により郭内建物のほとんどが解体され、大正時代以降は公園として開放されています。 
 五稜郭跡は、築造時の形態がよく残っていて日本城郭史上重要であるとともに、幕末期の洋学採用の一端をン示すものとして学術上きわめて価値が高いことから、北海道で唯一の国の特別史跡に指定されています。   』

 『函館毎日新聞』が発行1万号を記念して1913(大正2)年から10年かけて数千本のソメイヨシノを植樹し、その桜が現在も約1,600本が残っていて北海道有数の花見の名所となっています。

五稜郭公園へ 五稜郭公園へ

五稜郭公園へ 五稜郭公園へ

五稜郭公園へ     五稜郭公園へ

↑ 半月堡に渡って、すぐ見えてくる「二の橋」を渡って行きます(画像左)

※ 以下の動画には風切音や機械音などの雑音が入っていますので、視聴に際しては音量に十分ご注意ください。

五稜郭公園 五稜郭公園

↑「刎(は)ね出し」(または、「武者返(むしゃがえ)し」「忍(しの)び返し」とも呼ばれる)を下から見た所。石垣の天端から2段目の石が前へ張り出して積まれているため、侵入者が石垣を乗り越えにくい構造になっている(画像左)

五稜郭公園 五稜郭公園

『   半月堡 はんげつほ Ravelin    (説明板より)

半月堡は、西洋式土塁に特徴的な三角形状の出塁で、馬出塁(うまだしるい)ともいいます。郭内への出入口を防御(ぼうぎょ)するために設置されています。
当初の設計では各稜堡(りょうほ)間の5か所に配置する予定でしたが、工事規模の縮小などから、実際には正面の1か所だけに造られました。
北側中央部の土坂が開口部となっているほかは、刎(は)ね出しのある石垣で囲まれています。

※刎(は)ね出し 武者返(むしゃがえ)し・忍(しの)び返(がえ)しともよばれ、上から2段目の石が迫り出して積まれているため、外部からの侵入(しんにゅう)を防(ふせ)ぐ構造(こうぞう)になっています。   』

 正面から入園して一の橋を渡り切った右手の土手にある桜が特に見栄えが言うそうです。

 また、散り際には堀の水面が花びらで覆い尽くされる「花筏(はないかだ)」も見られ、開花時とはまた違った風情を楽しむことができます。

五稜郭公園 五稜郭公園

五稜郭公園 五稜郭公園

五稜郭公園 五稜郭公園

五稜郭公園 五稜郭公園

↑ 「刎(は)ね出し」(または、「武者返(むしゃがえ)し」「忍(しの)び返し」とも呼ばれる)を上から見た所。石垣の天端から2段目の石が前へ張り出して積まれているため、侵入者が石垣を乗り越えにくい構造になっている(画像左)

五稜郭公園 五稜郭公園

 現在残っている星形の遺構から外側100~350mには来たと北西を除いて外郭の土塁がかつては存在していましたが、現在は国保安有林となっている個所以外の面影は失われています。

五稜郭公園 五稜郭公園

五稜郭公園 五稜郭公園

『   土塁・石垣 どるい・いしがき   (説明板より)
    Earthwork and Stone Wall
五稜郭の土塁は、掘割からの揚(あ)げ土を積んだもので、土を層状に突き固める版築(はんちく)という工法で造られています。
郭内への出入口となる3か所の本塁は、一部が石垣造りとなっています。特に正面の出入口となる南西側の本塁石垣は、他の場所の石垣よりも高く築かれていて、上部には「刎(は)ね出し」とよばれる防御(ぼうぎょ)のための迫(せ)り出しがあります。
石垣には函館山麓の立待岬(たちまちみさき)から切り出した安山岩(あんざんがん)や五稜郭北方の山の石が使われています。

※刎(は)ね出し 武者返(むしゃがえ)し・忍(しの)び返(がえ)しともよばれ、上から2段目の石が迫り出して積まれているため、外部からの侵入(しんにゅう)を防(ふせ)ぐ構造(こうぞう)になっています。   』

五稜郭公園 五稜郭公園

五稜郭公園 五稜郭公園

五稜郭公園 五稜郭公園

武田斐三郎之碑 武田斐三郎之碑

『   五稜郭築城設計及び監督
    箱館奉行支配諸術調所教授役

      武田斐三郎先生 
      顕 彰 碑

五稜郭は我が国はじめての様式築城で安政4年着工。
7年の歳月を費して元治元年(1864)に竣功した。
のち旧幕府脱走軍がこの城に拠り箱館戦争の本城と
なった。築城100年記念に当ってこの碑を建てた。
昭和39年(1964)7月18日   函 館 市   』

箱館奉行所庁舎 箱館奉行所庁舎

箱館奉行所庁舎 箱館奉行所庁舎

『   箱館奉行所     (説明板より)
箱館奉行所は幕末の開港地箱館に置かれた江戸幕府の役所です。箱館戦争後、解体されましたが、発掘調査や古写真、絵図面、文献資料などを詳細に分析し、可能な限り当時と同じ材料、工法を用い、4年の歳月をかけて2010年に復元されました。

館内は、再現ゾーン、歴史発見ゾーン、映像シアター、建築復元ゾーンに分かれ、当時の雰囲気を味わえるとともに、関係する歴史や復元した木造古建築の特徴など、様々な工夫をして紹介しています。   』

箱館奉行所庁舎    箱館奉行所庁舎

『   箱館奉行所      (説明板より)
    HAKODATE MAGISTRATE'S OFFICE
箱館奉行所は、幕末の箱館開港により設置された江戸幕府の役所で、奉行所の防御(ぼうぎょ)施設として築造されたのが五稜郭(ごりょうかく)です。
安政(あんせい)4年(1857)に着工して7年後の元治(げんじ)元年(1864)に完成し、蝦夷地(えぞち)の政治的中心となりました。
明治維新の際には戊辰戦争(ぼしんせんそう)最後の戦いである箱館戦争の舞台となり、明治4年(1871)に奉行所庁舎は解体されました。
それから140年の時を経て、平成22年(2010)に箱館奉行所が復元されました。   』

箱館奉行所庁舎 箱館奉行所庁舎

『   箱館奉行所はこだてぶぎょうしょ     (説明板より)
五稜郭内の箱館奉行所庁舎は、文久2年に建築工事が開始されました。マツ・スギ・ヒバばどの建築材木は能代(のしろ;現在の秋田県)で加工され、船で箱館に運ばれて組み立てられました。
元治元年に奉行所庁舎が完成し、同年6月には箱館山麓がら奉行所が移転して、蝦夷地(えぞち)における政治的中心となりました。
なお、五稜郭内の工事や付属建物がすべて完成したのは2年後の慶応2年です。
その後、明治維新により江戸幕府から明治新政府に引き継がれましたが、明治元年から2年にかけての箱館戦争時には旧幕府脱走軍の本拠地(ほんきょち)になりました。
箱館戦争終結後はふたたび明治政府のものとなりましたが、役所として利用されることはなく、明治4年に開拓使本庁舎の札幌移転に伴い、奉行所庁舎をはじめ郭内のほとんどの建物が解体されました。
庁舎解体から140年を経た平成22年、綿密な復元検討を重ねて、箱館奉行所は往時の姿に復元されました。   』

箱館奉行所庁舎から五稜郭タワー 箱館奉行所庁舎から五稜郭タワー

説明板 説明板

※ 以下の動画には風切音や機械音などの雑音が入っていますので、視聴に際しては音量に十分ご注意ください。

説明板 箱館奉行所庁舎前広場で

箱館奉行所庁舎前広場で 箱館奉行所庁舎前広場

箱館奉行所庁舎前広場 箱館奉行所庁舎前広場

土蔵 塀糧庫

塀糧庫 塀糧庫

『   土蔵(兵糧庫)どぞう(ひょうろうこ)     (説明板より)
    Mud-Walled Storage(Food Storage)
五稜郭建造時の建物で、唯一現存しているものです。
箱館戦争の記憶から、いつしか「兵糧庫」と呼ばれるようになったようです。
大正時代には「懐旧館(かいきゅうかん)」
文献資料や発掘調査成果から庇屋(ひさしや)があったことが確認されたことから、平成13・14年度の修理工事の際に、現在の姿に復元しました。

    板庫・土蔵(いたくら・どぞう)
    Wooden Storehouse and Mud-Walled Storages
文書や物品などを保管・収納していた建物で、板庫は板壁造、土蔵は土壁造の建物です。
土蔵(兵糧庫)・板庫・土蔵は2間ずつ離れて、3棟並んで建てられていました。
板庫は休憩所、土蔵は管理事務所として外観を復元的に整備しています。   』

土蔵 箱館奉行所庁舎 

箱館奉行所庁舎 箱館奉行所庁舎

箱館奉行所庁舎 箱館奉行所庁舎

箱館奉行所 箱館奉行所説明板

『  箱館奉行所(遺構平面表示) はこだてぶぎょうしょ(いこうへいめんひょうじ)(説明板より)
   Hakodate Magistrate's Office(Floor Plan)
箱館奉行所は、公務(こうむ)を執(と)る役所部分と奥向(おくむき)とよばれる奉行の役宅(やくたく)部分に分かれていて、その総面積は約3,000㎡となっています。このうちの約3分の1の範囲(約1,000㎡)は建物を復元し、残りの約2,000㎡分は地面に部屋割を区画した遺構平面表示(いこうへいめんひょうじ)により奉行所建物の範囲を表示しました。
いずれも発掘調査によって発見された柱の礎石(そせき)などの建物遺構の真上に復元しています。
役所部分は、玄関・大広間などの儀式(ぎしき)の部屋、裁判(さいばん)などを行う部屋、奉行とその部下の仕事部屋、炊事(すいじ)部屋などが、奥向には奉行とその家族が住むための部屋などがありました。
また、奉行所を囲む板塀(いたべい)や木柵(もくさく)、井戸などの遺構の位置も表示しています。   』

箱館奉行所庁舎 箱館奉行所説明板

五稜郭公園から 五稜郭公園から

五稜郭公園から 五稜郭公園から

近中長屋跡など説明板 近中長屋跡など説明板

『   用人長屋跡 ようにんながやあと     (説明板より)
    Site of Row House for "Yonin"
箱館奉行所には仕える用人が居住していた建物で、3住居続きの長屋建物です。
1住居あたりの広さは23.67坪(約78.2㎡)で、手附(てつき)長屋に次いで大きな区画となっています。
住居ごとに、板堀で仕切られた庭と用場小用所(ようばしょうようどころ;トイレ)が設けられていました。

    手附長屋跡 てつきながやあと
    Site of Row House for "Tetsuki"
箱館奉行所に仕える手附が居住していた建物で、2住居続きの長屋建物です。
1住居あたりの広さは24坪(約79.3㎡)で、郭内の長屋では最も大きな区画となっています。
住居ごとに、板堀で仕切られた庭と用場小用所(ようばしょうようどころ;トイレ)が設けられていました。

    奉行所厩跡 ぶぎょうしょうまやあと
    Site of Stable
馬を飼育していた建物です。記録には、2頭分の厩舎(きゅうしゃ)と流し場、秣置場(まぐさおきば)があったと記されています。周囲を柵で囲み、水場も設置されていました。

    板蔵跡 いたくらあと
    Site of Wooden Storehouse
文書や物品などを保管・収納していた建物です。
建物跡の中央に、柱受けと思われる柱穴が確認されました。   』

※ 以下の動画には風切音や機械音などの雑音が入っていますので、視聴に際しては音量に十分ご注意ください。

近中長屋跡説明板 近中長屋跡説明板

『   近中長屋跡 きんじゅうながやあと     (説明板より)
    Site of Row House for "Kinju"
箱館奉行に仕える近中(近習)が居住していた建物で、4住居続きの長屋建物です。
1住居あたりの広さは12.75坪(約42.1㎡)で、給人(きゅうにん)長屋よりも小さな区画となっています。
住居ごとに、板堀で仕切られた庭と用場小用所(ようばしょうようどころ;トイレ)が設けられていました。

    徒中番大部屋跡 かちなかばんおおべやあと
    Site of Living Quarter for "Kachi","Nakaban"and Other Lower Retainers
徒士(かち)や中番(なかばん)などが居住していた建物で、記録には、東側から中番・徒士・大部屋に仕切られた間取りが配されています。
建物北側に、用場小用所(トイレ)が張り出していました。

    給人長屋跡 きゅうにんながやあと
    Site of Row House for "Kyunin"
箱館奉行に仕える給人が居住していた建物で、3住居続きの長屋建物です。
1住居あたりの広さは19.25(約63.6㎡)で、用人長屋よりも小さな区画となっています。
建物南側に、板堀と柵で仕切られた庭と用場小用所(トイレ)が設けられていました。

    湯遣所跡 ゆつかいどころあと
    Site of Bath House
近中長屋跡の東側と徒中番大部屋跡の南側の2か所で発見された建物で、記録には土間(どま)や流し場などがあったと記されています。
また、近くには上水道が引かれていたようです。   』

近中長屋跡説明板 近中長屋跡説明板

『   近中長屋跡 きんじゅうながやあと
    Site of Row House for "Kinju"
箱館奉行に仕える近中(近習)が居住していた建物で、4住居続きの長屋建物です。
1住居あたりの広さは12.75坪(約42.1㎡)で、給人(きゅうにん)長屋よりも小さな区画となっています。
住居ごとに、板堀で仕切られた庭と用場小用所(ようばしょうようどころ;トイレ)が設けられていました。

    板蔵跡 いたくらあと
    Site of Wooden Storehouse
文書や物品などを保管・収納していた建物です。
建物跡の中央に、柱受けと思われる柱穴が確認されました。

    湯所跡 ゆどころあと
    Site of Bath House
近中長屋跡の北側で発見された建物です。
北東地区の湯遣所(ゆつかいどころ)と同様のものと思われます。   』

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五稜郭公園 大砲を運んだ坂説明板

大砲を運んだ坂説明板      大砲を運んだ坂説明板

『   大砲を運んだ坂 たいほうをはこんださか     (説明板より)
    Slope for Carting Cannon
土塁の上に大砲を運ぶための坂で、箱館戦争の際に造られたと想定されます。5か所の稜堡(りょうほ)にそれぞれ造られました。
また、発掘調査の際に、郭内南東側の手附(つけ) 長屋跡に重複して、並行する2本の溝が発見されました。2本の溝を延長した先に土塁に通じる坂があることから、箱館戦争の際に、長屋を壊して大砲を運んだ時についた轍(わだち)跡と考えられます。   』

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五稜郭公園 板蔵

板蔵 箱館奉行所庁舎

五稜郭公園 五稜郭公園

五稜郭公園 五稜郭公園

五稜郭公園 裏門橋から五稜郭外周遊歩道へ 

裏門橋から堀の様子 裏門橋付近の堀の様子

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堀の水蓮群 堀の水蓮

堀の水蓮 堀の水蓮

役宅跡説明板 

『   役宅跡 やくたくあと     (説明板より)
    Site of Staff Residential Area
五稜郭の築造と前後して、五稜郭の北側では役宅の地割りが開始されました。万延(まんえん)元年には30軒の役宅が建設され、その後もさらに16軒の役宅が建てられました。
箱館奉行とその家族は、五稜郭内の奉行所庁舎東側の奥向(おくむき)とよばれる役宅に居住していましたが、奉行以外の役人は五稜郭内に居住することは認められず、郭外の役宅から登庁していました。
役宅は、明治2年の箱館戦争(はこだてせんそう)の際に防備上の障害とされ、旧幕府脱走軍(きゅうばくふだっそうぐん)によって焼失された記録が残っています。その後、明治から昭和初期にかけては、牧場や畑地などになっていましたが、戦後宅地化が進み、現在では役宅跡はほとんど失われてしまったようです。しかし、かつての役宅があった範囲は、古図面や現在の地割りなどから想定することができます。
また、その外側には、五稜郭と役宅跡を囲む植樹帯に相当する帯状の区画がめぐっていて、五稜郭南東側のアカマツ林にその名残を見ることができます。   』

特別史跡五稜郭跡説明板 特別史跡五稜郭跡説明板

『   特別史跡五稜郭跡とくべつしせきごりょうかく    (説明板より)
    昭和27年3月29日指定
 五稜郭跡は、幕末の箱館開港に伴い設置された箱館奉行所の防御(ぼうぎょ)施設で、箱館奉行配下の諸術調所(しょじゅつしらべしょ)教授役で蘭学斜の武田斐三郎成章(たけだあやさぶろうなりあき)により、中世ヨーロッパで発達した城塞(じょうさい)都市を参考に設計された西洋式土塁です。稜堡(りょうほ)とよばれる5つの突角が星形の五角形状に土塁がめぐっていることから五稜郭と呼ばれ、郭内には日本伝統建築の箱館奉行所庁舎とその付属建物20数棟が建てられました。
 安政4年に築造を開始して7年後の元治元年に竣工、同年6月に奉行所が移転して蝦夷地(えぞち)における政治的中心地となりました。その後、明治維新により明治新政府の役所となりましたが、明治元年10月に榎本武揚(えのもとたけあき)率いる旧幕府脱走軍が占拠、翌明治2年5月に終結する箱館戦争の舞台となりました。箱館戦争後は、明治4年に開拓使により郭内建物のほとんどが解体され、大正時代以降は公園として開放されています。 
 五稜郭跡は、築造時の形態がよく残っていて日本城郭史上重要であるとともに、幕末期の洋学採用の一端をン示すものとして学術上きわめて価値が高いことから、北海道で唯一の国の特別史跡に指定されています。   』

遊歩道から堀の様子 遊歩道から堀の様子

遊歩道から堀の様子 遊歩道から堀の様子

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遊歩道から堀の様子 遊歩道から堀の様子

羽を休める水鳥 羽を休める水鳥 

羽を休める水鳥 空飛ぶ飛行機

堀を泳ぐコイ 堀を泳ぐコイ

 1952(昭和27)年に国の特別史跡に指定され、2004(平成126)年に「五稜郭と箱館戦争の遺構」として北海道遺産に選定されています。

 五稜郭は文化庁所管の国有財産で、函館市が貸与を受け函館市住宅都市施設公社(指定管理者)が管理しています。

堀を泳ぐコイ 堀を泳ぐコイ

↑ 多分「コイ」だと思うんだけど、水面に浮かんでいる物を餌だと思って一生懸命水面すれすれで口をパクパクさせていました、餌じゃないものはっ直ぐに吐き出していました!喉で分かるんだ?!感心しました。

※ 以下の動画には風切音や機械音などの雑音が入っていますので、視聴に際しては音量に十分ご注意ください。

木陰で羽を休める鳥たち 木陰で羽を休める鳥たち

木陰で羽を休める鳥たち 木陰で羽を休める鳥たち

↑ 多分「カモメ」だと思うんだけど、暑さで木陰で涼んでいるみたい?!

堀沿いの遊歩道から 堀沿いの遊歩道から

堀沿いの遊歩道から 堀沿いの遊歩道から

↑ 五稜郭タワーが再び見えてきました。裏門橋から堀を渡って外周遊歩道をタワー目指して約半周歩いています。

観光地の評価としては、ミシュラン・グリーンガイド・ジャパンで、「五稜郭跡」と「眺望(五稜郭跡)」が二つ星を獲得しています。

 五稜郭公園は解説が914(大正3)年で面積25.2ha、駐車場はないので「函館市五稜郭観光駐車場」等を利用してください。

 開園時間は常時で、郭内(堀の内側、郭内トイレも同じ)は4~10月:5時~19時、11~3月:5時~18時となっています。

孤独に休むカモメ? 孤独に休むカモメ?

↑ 途中で一羽の孤独なカモメ?に出会いました。そっと画像だけ撮らせてもらいました、パチリ!

※ 以下の動画には風切音や機械音などの雑音が入っていますので、視聴に際しては音量に十分ご注意ください。

堀の石垣の修理中? 堀の石垣の修理中?

↑ 台風のせいかな?石垣が一部崩れてしまって修復中の様子でした。五稜郭は土塁だけだと崩れやすいそうなので石垣併用にしたそうです。

堀沿いの遊歩道から 堀沿いの遊歩道から

↑ 遠くに見えている橋は半月堡から渡った「二の橋」かな? もう少しでタワー下のゴールに着くようです。

タワーに近づいてきました、ゴールが近い    タワーに近づいてきました、ゴールが近い

五稜郭タワー、ズーム! 五稜郭タワー、さらにズーム!

↑ 五稜郭タワーが一段と近くに見えてきました、今回の「五稜郭タワー・五稜郭公園」の見学ももう少しで終わりとなります。帰りの電車は何時にあるのかな?

 ジョギング等で外周遠路を周回利用する際には、衝突事故防止のため左回り(反時計回り)にご協力ください。

 桜以外にもフジ、ツツジ、スイレン等の花も見事だそうです。

 堀の外周は一周1,800mほどの遊歩道になっていてジョギングやウォーキングを楽しむ市民の姿も多く見られるそうです。

   奉行所復元

 函館市では、1983(昭和58)年頃から五稜郭の復元整備を目的にした資料調査を始めました。

 併せて郭内中心部の遺構確認試掘調査を行い奉行所等建物の遺構の残存状況が良好なことを確認し、1985(昭和60)年から本格的な奉行所遺構の発掘調査を開始しました。

 その後4度の発掘調査を行い復元に向けての基礎的資料を収集しました。

 2000(平成12)年に箱館奉行所復元構想を、翌年に箱館奉行所復元計画を策定し、2006(平成18)年に着工しました。

 4年後の2010(平成22)年に復元工事が竣工し同年7月に開館しました。

※ 函館市公式観光サイトはこぶら「五稜郭公園」、フリー百科事典ウィキペディ「五稜郭タワー」・「五稜郭」・「箱館戦争」・「戊辰戦争」、 一般財団法人 函館市住宅都市施設公社「五稜郭公園」・「国指定特別史跡「五稜郭跡」」を参考にさせて頂きました。

 ご訪問頂きありがとうございました。

 

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