『道北の旅Ⅱ』-ぺシ岬-
こんにちは、ご訪問頂きありがとうございます。
今回は、「ぺシ岬」(利尻郡利尻富士町鴛泊(りしりふじちょうおしどまり))を紹介します。
(訪問日:2019年(令和元年)7月下旬)
前回紹介しました「夕日の丘展望台」を後にして、利尻島へ渡るフェリーの船上から私たちを出迎えてくれた「鴛泊港(おしどまりこう)」のすぐ隣にある「ベシ岬」へ向かいました。
ぺシ岬を観光を終えると、利尻島の海岸沿いを走っている道道108号線と105号線をくるっと1周してきたことになります。
そして、その道路沿いにある観光地などを全てではありませんが大まかに駆け足で巡って見てきたことになります。
ぺ シ 岬
「ぺシ岬(灯台山とも呼ばれているそうです)にある展望台への入口はどこかな?」と、迷ってしまうほど初めていく私のような方には分かりにくい所にあるように思います。
岬の麓辺りを探しながら進んで行くと、小高い丘の上にある旅館のような建物へ続いている階段の横に入口案内看板を発見しました。
階段を上って行くと展望台へと続いている遊歩道がありました。
ぺシ岬は鴛泊港の北側にある標高93mの大きな岩山の岬です。
岬の最高部に一等三角点と展望台があり、そこからは日本海の大きな広がりとその先には北海道本島、これまで紹介してきた「夕日が丘展望台」やウミネコのコロニー「ポンモシリ島」、フェリーの発着を繰り返している鴛泊港、その奥には富士山を思わせるような端正な姿を見せてくれている利尻山など360度の眺望を楽しむことができます(もちろん天気次第ではありますが…)。
※ 以下の動画には風切音、機械音などの雑音が入っていますので、視聴に際しては音量にご注意ください。
展望台から岬の先端側へ下った所に「鴛泊灯台」があり日本海を行く船舶の安全な航行を見守りながら照らしています。
※ 以下の動画には風切音、機械音などの雑音が入っていますので、視聴に際しては音量にご注意ください。
展望台へ向かう道の途中に「会津藩士の墓碑」が立つ「鴛泊ぺシ岬広場」があります。
※ 以下の動画には風切音、機械音などの雑音が入っていますので、視聴に際しては音量にご注意ください。
『 スタンプラリー 十三景 (説明板より)
「求道の山」
なおも
天極めざし
詩・原子 修
地平に腰を据えつつも、なお、純度の
髙い光におのれを返そうとする、ひたむ
きな求道の姿をみせる利尻山です。日々
のくらしのなかで、道をさぐりあてよ、
と、山が、ささやいています。 』
※ 以下の動画には風切音、機械音などの雑音が入っていますので、視聴に際しては音量にご注意ください。
鴛泊(おしどまり)灯台
初点灯は1892年(明治25年)11月、塔の高さ9.4m、灯火標高76m(海面~塔頂)、灯質は単閃白光毎15秒に1閃光、光達距離21.5海里(約40m)です。
白色で塔形、四角形、コンクリート造の灯台で、この灯台があることからぺシ岬のことを地元の方は「灯台山」とも呼ばれているそうです。
2019年(平成30年)には「恋する灯台」に認定されたました。
※ 恋する灯台プロジェクト・・・一般社団法人日本ロマンチスト協会と日本財団が共同で実施しているプロジェクトです。灯台を「二人の未来を見つめる場所」と定義し、「ロマンスの聖地」へと再価値化し、日本全国の灯台からそれにふさわしい灯台を「恋する灯台」、その灯台のある地域を「恋する灯台のまち」に認定し、地域の観光資源としての灯台の価値を見直すことで灯台に訪れる老若男女を増やして海への関心を高めていくことを目的としています。
会津藩士の墓碑
ぺシ岬展望台へ上る途中にある「鴛泊ぺシ岬広場」の「会津藩士の墓碑」が立っています。
徳川家康が「関ヶ原の戦い」で勝利し江戸に幕府を開いたのが1603年(慶長8年)、それから200年程の歳月が過ぎた1792年(寛政4年)にラクスマンが根室に来航し通商を要求、1804年(文化1年)にロシア使節レザノフが長崎に来航し通商を要求しました。
その約50年後の1853年(嘉永6年)に浦賀沖に黒船(ペリー率いる艦隊)が来航し、翌年には日米和親条約が締結されました。
「幕末前夜」ともいえる時期、ロシアから日本へ通商を求める動きが強くなっていましたが、鎖国下にあった日本は拒否を続けていました。
そうした情勢の中で1806年(文化3年)にロシア海軍は武装戦を樺太のクシュンコタン(久春古丹)などを、翌年には択捉島や利尻島沖に停泊中の船を襲撃し上陸するなどの事件が起きました。
事件を知った江戸幕府は奥羽(東北)諸藩に蝦夷地防備の出兵を命じ、会津藩からは松前(函館)、宗谷、利尻、樺太で総勢1,600名ほどが出陣しました。
その約50年後の1853年(嘉永6年)に浦賀沖に黒船(ペリー率いる艦隊)が来航し、翌年には日米和親条約が締結されました。
「幕末前夜」ともいえる時期、ロシアから日本へ通商を求める動きが強くなっていましたが、鎖国下にあった日本は拒否を続けていました。
そうした情勢の中で1806年(文化3年)にロシア海軍は武装戦を樺太のクシュンコタン(久春古丹)などを、翌年には択捉島や利尻島沖に停泊中の船を襲撃し上陸するなどの事件が起きました。
事件を知った江戸幕府は奥羽(東北)諸藩に蝦夷地防備の出兵を命じ、会津藩からは松前(函館)、宗谷、利尻、樺太で総勢1,600名ほどが出陣しました。
1808年(文化5年)、利尻島での警備中にロシアとの交戦はなく約3ヶ月で任務を終え会津に帰還しました。
しかし、期間途中に藩士を乗せた船の内1隻が帰還途中に嵐に遭い利尻島のリヤコタン(現・沓形から種富町海岸域)に漂着し大破沈没するという事故が起きました。
その事故により亡くなった者、病に臥した者8名の藩士を弔った墓碑が利尻島内の3か所(鴛泊ぺシ岬、本泊慈教寺、種富町)にあります。
※ 利尻島観光ポータルサイト「りしぷらRISHIRI PLUS 『夕日が丘展望台』」、「利尻富士町サイト 指定有形文化財『会津藩士の墓』」、「利尻町役場サイト『会津藩士の利尻島警備---会津藩士、利尻を護る---』」・「利尻島郷土資料館解説シート『利尻の近世史Ⅱ 会津藩の北方警護』、フリー百科事典ウィキペディア『会津藩の北方警備』」を参考にさせて頂きました。
ご訪問頂きありがとうございました。
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