『道南の旅』-キネツカ台場跡-
こんにちは、ご訪問頂きありがとうございます。
今回は、「キネツカ台場」を紹介します。
(訪問日:2019年(令和元年)7月下旬)
前回紹介しました「弁慶の足跡」を後にして、島の最南側にある「キネツカ台場跡」へ向かいました。
キネツカ台場跡は、すでに紹介しました鴎島の北側にある「テカエシ台場」と共に造られた砲台の跡です。
島の南端に行くと海岸に少し窪んでいる一画があり、そこが松前藩が設置した海防のためのキネツカ砲台跡です。
幕末には旧幕府軍がそこを占領し、新政府軍との砲撃戦を行ないました。
その頃の箱館戦争の様子を紹介しますと、明治2年(1869)3月に宮古湾海戦(現在の岩手県宮古市沖)で勝利した新政府軍は4月初めに北海道へ渡海する準備が完了していました。
新政府軍は4月上旬には乙部(おとべ)に上陸し、抵抗してくる旧幕府軍と戦い勝利しながら江差に向かって進軍していきました。
一方海上でも新政府軍軍艦5隻が江差砲撃を開始し、旧幕府軍は江差の砲台から反撃を試みますが敵艦に砲弾が届かず松前方面への後退を余儀なくされ、その後江差は新政府軍に奪還されてしまいました。
『 キネツカ台場跡(だいばあと) (説明板より)
江戸時代の後期、鴎島(かもめじま)北側のテカエシ台場(だいば)と共に設けられました。
明治2年(1869)4月、江差を占拠していた旧幕府軍(きゅうばくふぐん)は、攻めて来た新政府(しんせいふ)軍に対して、キネツカ台場(だいば)から砲撃を行いました。 』
※ 以下の動画には風切音などの雑音が入っていますので、視聴に際しては音量にご留意ください。
※ 「江差町公式ホームページ『キネツカ台場跡』」、フリー百科事典ウィキペディア「箱館戦争」を参考にさせて頂きました。
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