『道東の旅Ⅲ』-史跡北斗遺跡展示館-
こんにちは、ご訪問頂きありがとうございます。
今回は、「史跡北斗遺跡展示館(しせきほくといせきてんじかん)」を紹介します。
(訪問日:2019年(令和元年)9月下旬)
前回で紹介しましたように午前8時頃に「北斗遺跡」に着いた私は、「史跡北斗遺跡展示館」の開館時刻までの間奥にある遺跡を見学してくることにしました。
北斗遺跡をぐるり回って一通り見学し終わり時計を見ると、10時過ぎでしたので開館している頃合いだろうと思い展示館の方へ向かいました。
史跡北斗遺跡展示館には、北斗遺跡で出土した土器や石器、金属製品の他にも復元住居や遺構全体模型なども展示されています。
↑ 「遺構全体模型」は史跡の東端部竪穴住居跡周辺の様子を1/150で表され、背景には湿原が描かれていてジオラマのようになっています。
『 モシリヤ砦跡(とりであと) (説明板より)
旧釧路川に面して半島状に伸びる標高18mの丘陵を利用してつくられた丘頂式のチャシである。チャシは砦・柵囲いを意味するアイヌ語である。
砦の形から「お供え山」として親しまれ、サㇽシナイ(芦の生えている沢)チャシ、ポロ(大きい)チャシとも呼ばれてきた。モシリヤ(川中の島の対岸の丘)は、この一帯の地名である。
18世紀の中ごろ釧路に勢力のあったトミカラアイノにより造られ、その一族のタサニセやメンカクシも利用したと伝えられている。
国指定史跡
指定年月日 昭和10年12月24日
指定面積 9850㎡ 』
『 鶴ヶ岱チャランケ砦跡 (説明板より)
春採湖の北岸から半島状に突き出た標高13mの丘頂部に、ジグザグになった幅3m・深さ1mの2条の壕がめぐらされ、壕内の広さは東西30m・南北15mである。
この場所は、トーモシリ(湖の中島)と呼ばれる離れ島で、トーコロカムイ(湖の神様)の遊び場であったと伝えられている。チャランケは、話し合いの意味で、これは後世の人がつけた名である。
国指定史跡
指定年月日 昭和10年12月24日
指定面積 11742㎡ 』
↑ 復元された竪穴住居の様子
↑ 復元された竪穴住居の内部の様子
『 はた織り (説明板より)
アッシ織機は、筬(おさ)、上下糸分離器、綜絖棒(そうこうぼう)、箆(へら)、緯(よこ)糸巻棒、布巻取棒、腰当、経(たて)糸巻杭の8個の部品からなる。擦文時代のはた織具も類似したものとみられる。 』
『 釧路湿原周縁(しつげんしゅうえん)の遺跡(いせき) (説明板より)
釧路湿原は、面積21440ha、国内湿原総面積の60%を占める低湿地帯(ていしっちたい)である。
湿原のまわりには、旧(きゅう)石器時代からアイヌ時代にかけて約400ヶ所の遺跡が分布する。釧路川やシラルトロ沼・塘路(とうろ)湖・達古武(たっこぶ)沼など海跡湖沼(かいせきこしょう)に沿った東側台地に多い。交通や食糧確保など生活条件にめぐまれていたためである。
東釧路貝塚‣緑ヶ岡遺跡・幣舞遺跡・モシリヤ砦跡などは東側台地にあり、西側の拠点となる遺跡として北斗遺跡が存在する。 』
『 衣 服 (説明板より)
衣服は、毛皮をなめして用いたと思われるが、擦文時代の初めころ、紡錘車(ぼうすいしゃ)や栽培植物アサの種子が出土しており、はた織り技術が本州より伝わったらしい。
擦文時代後半の北斗遺跡では、はた織具の一部や編み糸の束・編み物・組紐・織物などの繊維遺物及び鉄製の針と鳥骨製の針入れが出土している。
糸材は、オヒョウ・ハルニレなどの樹皮やアサの繊維であろう。絹の布も出土しており、交易で入手したとみられる。 』
『 食 糧(しょくりょう) (説明板より)
川をさかのぼるサケ・マスが重要な食糧源(げん)であった。このほか、川のウグイや海のニシン・カレイ・オットセイあるいは陸のエゾシカ及(およ)びカモ類など多くの種類を食糧としており、ウバユリ・ドングリなどの野生植物も採取(さいしゅ)していた。
また、雑穀栽培(ざっこくさいばい)も行われており、炭化した粥状(かゆじょう)のキビのほかオオムギ・アサ・小豆(あずき)などの栽培植物が確認(かくにん)されている。 』
※ 縄文時代(じょうもんじだい)・・・世界史の中石器時代ないし新石器時代に相当し、日本史に固有の時代区分だそうです。土器と弓矢の使用、磨製石器(ませいせっき:砂と石あるいは石と石をすり合わせる等して表面が滑らかに加工された石器)の発達、定住化と竪穴式住居の普及、貝塚の形成、最終経済などが特徴です。
※ 続縄文時代(ぞくじょうもんじだい)・・・北海道を中心に紀元前3世紀頃から紀元後7世紀(弥生時代から古墳時代)にかけて擦文文化が現れるまで続いた時代です。本州では水稲栽培を取り入れて弥生時代に移行したときに、気候的条件から水田を作らず縄文時代の生活様式を継承し営んだ文化の時代です。竪穴式住居に住み狩猟と漁労を中心に採集と原始的栽培も行われていました。
※ 擦文時代(さつもんじだい)・・・北海道の歴史の中で7世紀頃から13世紀頃(飛鳥時代から鎌倉時代後半)にかけて擦文文化が栄えた時代区分です。土器の特徴は、縄文時代のそれは縄目の模様ですが、擦文時代は木のへらでこすったような刷毛目(はけめ)様の擦った文様が土器につけられています。擦文土器の表面調整技法は同時期の本州の土師器(はじき)にも使用されていて、土師器(はじき)からの影響もうかがえます。この時代の集落は狩猟や採集に適した住居の構え方をしていました。方形の竪穴式住居に住み、狩猟期には河口の丘陵上に、他の時期には川の中流や奥地に集落を作っていました。鉄器も普及しはじめしだいに石器が作られなくなりました。
※ ウィキペディア・フリー百科事典「北斗遺跡」・「擦文時代」、「釧路市ホームページ・サイト「『釧路市北斗遺跡ふるさと歴史の広場』」を参考にさせて頂きました。
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