『道東の旅Ⅲ』-十勝近代史発祥の地・昆布刈石展望台-

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十勝近代史発祥の地 こんにちは、ご訪問頂きありがとうございます。

 今回は、「十勝近代史発祥(とかちきんだいしはっしょう)の地・昆布刈石展望台(こんぶかりいしてんぼうだい)」を紹介します。

       (訪問日:2019年(令和元年)9月下旬)

  十勝近代史発祥の地

 まずは、「十勝近代史発祥の地」(豊頃町大津寿町)を紹介します。

 前回で紹介しました「長節湖(ちょうぶしこ)」を後にして、道路地図を見て豊頃町大津に「十勝近代史発祥の地」があることを見つけた私は行ってみることにしました。

十勝近代史発祥の地 十勝近代史発祥の地

 地図から読むと、距離的には長節湖から4㎞程の所で「大津川」の河口に位置する「大津漁港」の手前にあります。

 海岸沿いを走っている道道912号線を東へ向かいました。

 大津漁港に至る手前に「十勝発祥の地」はありました。

 「なぜ、ここが十勝発祥の地なんだろう?」と思ってしまいました。

十勝近代史発祥の地 十勝近代史発祥の地

 大津近隣で大きな都市というと「帯広市」、その他にはワインで有名な「池田町」等ありますが、直線距離で30㎞ほど離れています。

 帰宅してからいろいろと調べてみると、その鍵は「十勝川」でした。

 十勝川は、大雪山系十勝岳の南斜面を源流に十勝平野を潤しながら豊頃町大津で太平洋に注ぐ北海道屈指の長大な河川です。

十勝近代史発祥の地 十勝近代史発祥の地

 「十勝川」の語源のアイヌ語「トカプチ」(乳房、ある処)にあるように昭和初期までは下流域で十勝川と大津川とが並行して流れる二つの河口を持つ川でした。

 1963年(昭和38年)に水害を避けるために堤防を築いて二つの川を分離、昭和57年に十勝川から浦幌十勝川へ「浦幌十勝導水路」の開削により一つの川になりました。

十勝近代史発祥の地             十勝近代史発祥の地

 江戸時代、1858年(安政5年)に幕命により松浦武四郎が十勝を探検・踏査しています。

 1869年(明治2年)に箱館(はこだて)戦争終結・戊辰(ぼしん)戦争が終結すると、新政府は「蝦夷地(えぞち)」を「北海道」に改名され、「開拓使(かいたくし)」が設置、十勝国(とかちこく:7郡51村)が創設されました。

十勝近代史発祥の地・説明板 十勝近代史発祥の地・説明板

 当時の大津は十勝への玄関口であり、沖合に停泊した船から艀(はしけ)に乗り換え上陸し、さらに「川舟」を利用して奥地へ向かうというのが移住の道順でありました。

 1880年(明治13年)十勝、中川、河西、河東、上川5郡各村戸長役場が大津村に置かれました。

 1883年(明治16年)に依田勉三らが下帯広(現・帯広市)に到着し、明治18年に「晩成社(ばんせいしゃ)」の事業を開始しました。

十勝近代史発祥の地・説明板 十勝近代史発祥の地・説明板

 北海道大樹町の「晩成地区」はこの晩成社に因んだものですし、六花亭(ろっかてい:本社・帯広市)の銘菓の一つ「マルセイバターサンド」の名前の由来も晩成社が製造した「マルセイバタ」に因んだものだそうです。

 十勝川の水が氷結し海に流れ出た氷が波によって磨かれた透明感のある氷「ジュエリーアイス」が大津海岸の砂浜に打ち上げられるそうです。

 興味のある方は、「ジュエリーアイス」で検索してみて下さい。

十勝近代史発祥の地・説明板 十勝近代史発祥の地・説明板

『  十勝近代史発祥の地  -大津-     (説明板より)

   大津の歴史一河の賜物
  大津とはアイヌ語の「ヲホツナイ」(深い枝川)に由来し、明治3年に大津と改称される。
  明治以前の十勝(大津)の歴史を辿ると、現在の十勝地方はアイヌの人たちの世界であり、そこへ交易を求めて、和人が進出してきた。17世紀に十勝では商場<トカチ場所>が開かれていたが、その実態は不詳なことが多い。
 1799(寛政11)年頃、大津には番屋が置かれ、会所より官馬として馬7頭が配置された。1825(文政8)年に福嶋屋杉浦嘉七がトカチ場所を請け負い、1828年には豊漁と安全を願い十勝太に大津稲荷神社(前身)を創建した。1856(安政3)年、松浦武四郎は「日記」で大津に宿泊したと記している。1861年に青森県旧大畑町出身の堺千代吉は福嶋屋杉浦嘉七に雇われ活躍し、1863(文久3)年に大津に入ったが、そこは大津川沿にあった6戸の家と未開の地であった。その後、堺千代吉は定住し、大津発展に寄与した。

十勝発祥の碑              十勝発祥の碑

  大津の繁栄
 明治に入ると、蝦夷地は北海道と改称し、十勝国には七郡が置かれた。開拓使は静岡藩に十勝郡(大津)などを与え、分領支配させたが、直ぐに終わった。
1880(明治13)年、十勝の経済圏を独占していた「十勝組合」が解散し、十勝は開放され、各地から多くの人が大津の魅力に誘われて遣ってきた。同年に「十勝外四郡各村戸長役場」が大津に設置され、十勝の行政の中心になった。この背景には川を利しての十勝内陸部への運輸・開発にあった。ここから大津は急速なる発展の道を歩むことになる。
 この発展を支えていたのが、大津を代表する鮭業であり、明治10年代の後半から同20年代にかけては豊漁が続いた。明治30年代になると鮭業に代わり大津を繁栄させたのは、開拓ブームの到来であり、「北海道国有未開地処分法」に支えもあって、移住者も大幅に急増した。
 この間、明治25年に、大津~芽室間(通称大津街道)が囚人を使用して道路を開鑿(かいさく)され、明治30年函館~大津間には定期航路を開設するなど、交通網の整備は、十勝内陸部への開発を急速に押し進め、大津には莫大なる経済的な富をもたらした。
 1897(明治30)年頃の大津は戸数300戸、人口1000人を数え、市街地には商業38、旅人宿8、料理屋6、湯や、医師1、鍛冶2、理髪職2などと十勝一の賑わいを見せた。このように十勝の近代史は大津から始まるのである。  』

十勝発祥の碑              十勝発祥の碑

『   碑文
  徳川幕府は寛政十一年(一七九九年)今から一八〇年前に、始めて駅馬を大津に備え行客の用を便じた。これに伴って、漁場が開発されて番屋がおかれ、旅宿所も建てられた。このように大津は、漁業発展とともに十勝内陸地帯の開発の門戸として、開運及び道路交通上の重要な拠点となったのである。文久3年、青森県の堺千代吉が大津に住みつき、漁場を経営したが和人定住のはじめである。明治十三年に、十勝外四郡の戸長役場が大津に置かれた。この當時から、内地府県よりの移住者は艀(はしけ)で大津港に上陸し、十勝管内奥地に入植し、十勝の経済文化の発展の役割を果たしたので十勝発祥の地として後世に伝えるため開基百年を記念しこの碑を建立した。
    昭和五十四年十一月十六日 建 立
    豊 頃 町 長 神 田 貞 雄          』

  昆布刈石展望台

 国道336号線を海岸線に沿って進んで行くと舗装道路が突如砂利道に変わり田舎道の様になりました。道道1038号線へ繋がる手前に「昆布刈石展望台」はありました。

昆布刈石展望台へ 昆布刈石展望台へ

昆布刈石展望台へ 黄金の滝へ

 昔、大津沿岸は時化や濃霧など船通行の難所であり、岬の頂上で薪を燃やして灯火台にしていたそうです。

 岬から沖へ続く岩礁地帯で南に日高山脈、東に釧路の工場の煙、厚岸へと続く海岸線、標高約90mの崖の上から水平線が曲線を描くように太平洋を望むことができるビューポイントです。

黄金の滝 黄金の滝

黄金の滝 黄金の滝

 近くには「黄金の滝」がありますが、私が訪れた時にはなぜか「立入禁止」となっていました。

 先は斜面になっていて雨の後は滑って危険かもしれませんが、天気も良く乾いていて危なくないと思ったので、少し先の方まで行ってみることにしました。

黄金の滝 黄金の滝

黄金の滝 黄金の滝

 その名前は、「滝を取り囲む岩層が黄金色をしている」ことから名付けられたそうで、高さ30mほどの滝だそうです。

 上からでは流れ落ちている水の先は見えませんが、けっこう高さがありそうに思いました。

昆布刈石展望台 昆布刈石展望台

昆布刈石展望台 昆布刈石展望台

 降りられないこともないように思いましたが、「行きはよいよい帰りは怖い」とも言いますし、登り返してくる体力やこの先の予定も考えて、その場で留めておきました。

昆布刈石展望台 昆布刈石展望台

昆布刈石展望台 昆布刈石展望台から

※ 「とよころ観光ガイド十勝発祥の地 」、「一般社団法人帯広青年会議所・十勝帯広の歴史」を参考にさせて頂きました。

 ご訪問頂きありがとうございました。

 

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