『小樽散歩』-旧日本郵船(株)小樽支店-
こんにちは、ご訪問頂きありがとうございます。
今回は、「旧日本郵船(株)小樽支店(重要文化財)」(小樽市色内3丁目7番8号)を紹介します。
(訪問日:2018年(平成30年)7月下旬)
旧日本郵船(株)小樽支店(重要文化財)は、1904年(明治37年)に着工し1906年(明治39年)に落成した近世ヨーロッパ復興様式の石造2階建建築です。
1955年(昭和30年)に小樽市が日本郵船から譲り受け、翌年から小樽市博物館として利用されてきましたが、1969年(昭和44年)に明治後期の代表的石造建築として国の重要文化財に指定されました。
『 重要文化財
旧日本郵船株式会社小樽支店
指定年月日 昭和44年3月12日
建築年 明治39年 構造 石造2階建
この建物は、明治39年、日本郵船株式会社が小樽支店として新築したものです。 設計は工部大学校出身の佐立七次郎工学博士で、当時としては最も新しい石造洋風建築です。 新築後間もなく、日露戦争の講和条約による樺太の国境画定会議が小樽で開かれることになり、この建物の2階会議室において両国代表による会議が開かれ、隣の貴賓室で祝杯が交わされました。 昭和30年、市がこの建物をゆずり受け、小樽市博物館として使用していましたが、昭和59年から62年にかけて保存修理工事を実施し、営業室、会議室、貴賓室などを往時の姿に復元しました。
小樽市
(説明板より)』
『 小樽市指定歴史的建造物
旧日本郵船(株)小樽支店残荷倉庫
建築年;明治39(1906)年 構造:石造
旧日本郵船(株)小樽支店(国指定重要文化財)と同時にこの残荷倉庫も建設されました。工部大学校第一期卒業の佐立七次郎の設計による、一連の建築として貴重なものです。マンサード屋根の小屋組、壁の石積みの仕様などは、支店社屋と共通しています。平成14(2002)年に屋根全部と正面外壁部分が改修され、周囲の景観に調和させています。
(説明板より)』
『 営 業 室
広さ約240m。高いカウンターで客溜り(きゃくだまり)と営業室が仕切られ、カウンターの上の円柱につけられたブラケットライトとコリント式木彫キャピタルが来客を迎える装飾となっています。
机の上のコードペンダントは、机上照明の役割をはたすため低くさげられています。また床のリノリウムはドイツ製、シャッターと日よけはアメリカ製で、窓はすべて二重ガラスです。
建具金物類の堅牢さ、ワニス塗りの木部の輝き、重厚な格(ごう)天井、色鮮やかな天井紙など海運業隆盛期の雰囲気をよく伝えている空間です。
竣工当初鉄の支柱はありませんでしたが、後年、2階床梁(ゆかはり)補強のため立てられました。
(説明板より)』
『 白山丸 HAKUSAN MARU (1923-1944)
欧州航路(横浜・ロンドン線)就航の貨客船
長 さ:150.88m
幅 :18.90m
深 さ:11.28m
速 力:最大16.526ノット
主機関:タービン2基
船客定員:307名
昭和15年9月に特設港務艦となり、17年6月8日のキスカ島無血上陸の作戦にも参加した。19年6月4日、軍人・軍属ら515名を乗せ船艇に護衛されてサイパンからの復航中に、硫黄島西南西で潜水艦攻撃を受けて沈没した。
(説明板より)』
『 小樽の歩みと日本郵船誕生
慶応元年(1885)に村並となった小樽は、明治に入り政府の重要施策であった北海道開拓の玄関口として飛躍的な発展をとげます。
当時は北海道は、広大な資源に囲まれた宝庫と言われ国益のためにもその開拓は急務とされていました。そうした中、明治8年に設立された郵便汽船三菱会社は、その年には小樽支店を開設し、開拓物資の輸送にたずさわることとなります。
明治13年(1880)日本で3番目の鉄道が幌内炭砿の開削を目的に敷設されると、三菱郵便汽船は小樽港からの石炭積み出し業務を担い、北海道における開運基盤を築き上げました。一方、ほかの海運会社も、合弁会社の共同運輸会社を設立し、郵便汽船三菱に対抗することになり、それは両社の経営状態を極度に悪化させ、気運はその立て直しに両社合併新会社設立へと動いていきました。
明治18年(1885)三菱郵便汽船と共同運輸との合併によって設立された日本郵船株式会社は設立と同時に小樽支店を開設し、以来北方海運の拠点として小樽港を位置づけ世界に飛躍していきます。そして明治36年の手宮大火で被災した小樽支店はそれを機に石造店舗の建設にとりかかり明治39年、関東以北随一に豪壮な建物を完成させました。
(説明板より)』
『 重要文化財旧日本郵船株式会社小樽支店
この建物は、日本郵船株式会社の小樽支店として建てられたもので、本市が北海道開拓の拠点都市として商業港湾機能を充実させつつあった明治37年に着工、同39年10月に完成した近世ヨーロッパ復興様式の純石造建築です。
設計者は、工部大学校(現東京大学工学部)第1回卒業生の佐立七次郎で、施工は地元の大工棟梁山口岩吉があたり、総工費は約5万円でした。
昭和29年まで日本郵船株式会社が使用していましたが、昭和30年に小樽市の所有となり、翌31年から小樽市博物館として使用されてきました。
この間、昭和44年3月には明治後期の貴重な石造建築として、表門、石塀、棟札などと共に国の重要文化財に指定されました。
竣工まもない明治39年11月、ポーツマス条約に基づく日露の樺太国境画定会議がこの建物の2階会議室で行われ、会議終了後、隣りの貴賓室で両国委員が乾盃を交わしたという歴史的にも由緒ある建物です。
近年に至り、長年の風雪に耐えて老朽破損箇所が目立ったため、昭和59年10月より保存修理工事を実施し、昭和62年6月、建設当初の姿に甦りました。
(説明板より)』
『 貴 賓 室
広さ約61㎡。空色漆喰(しっくい)の天井、菊紋内摺(きくもんうちずり)セードのついた2基のシャンデリア、浮き出し菊模様の壁紙、寄木張りの床、鏡付大理石の暖炉、幻想花柄の絨毯(じゅうたん)、共布のカーテン、椅子類、家具調度品など、その配置にいたるまで竣工当時の姿を見ることができます。
特に残存していた椅子に張り布を基に色彩的にも推定復元され、商業建築物としては他に類をみない華麗な空間が甦りました。浮き出し模様の壁紙は金唐革紙(きんからかわかみ)と呼ばれ、明治期に主に輸出用に製造されていたものですが、このたびの修理工事で東面に一部新調復元しました。
暖房器具はアメリカンラジエーター社のものと推定され、この建物は、当時としては最新式に蒸気暖房設備を備えていました。
(説明板より)』
『 会 議 室
広さ約175㎡。天井は卵漆喰(しっくい)、3基の菊紋内摺(きくもんうちずり)セードのついたシャンデリア、アカンサス模様の金唐革紙(きんからかわかみ)、7m×14mの大絨毯(じゅうたん)、大テーブルを36個の椅子がとり囲み、広大な迫力ある空間となっています。
5つの窓にかけられた華やかなレースカーテンをとおして差し込む柔らかな光、天井の大胆な弧を描く装飾彫刻と中心飾りとの調和、赤いテーブルクロスの艶やかさなど、大きさの中に計算されたデザインが印象的です。
この建物が竣工してまもない明治39年11月13日、日露戦争の講和条約に基づく樺太の国境画定会議がこの部屋で開催され、会議終了後、隣の貴賓室で両国委員による乾盃が行われました。
(説明板より)』
『 樺太国境画定会議
明治37年に始まった日露戦争は、翌38年のポーツマスにおける講和条約によって終結し、日本は北緯50度以南の樺太を領有しました。北緯50度の直線を地図の上に引くことは簡単ですが、実地に境界線を設けることは容易なことではありませんでした。そこで、測量の方法、境界標石の表示方法、作図の確認方法など国境を定めるための会議がアレクサンドロフスクにおける会議を第一歩として数回行われましたが、実地の作業をする時期が短いため、細部は作業の進捗とともに決定されました。
これによって、明治40年度の作業の進め方について話し合うため開かれたのが小樽での会議でした。
会議は明治39年11月13日から21日までの間に4回行われ、7項目からなる条約を協定して終了しました。
この間、16日には日本側主催の招宴が開陽亭で盛大に開かれ、19日には小樽市民による日露両国委員歓迎の観劇会が住吉座で開かれました。
(説明板より)』
『 保存修理事業
本館は、明治後期の代表的洋風石造建築として、昭和44年に国の重要文化財に指定され、小樽市では、この貴重な文化遺産を永く後世に伝えるため、保存修理工事を実施してきました。
まず、昭和53年度~54年度にかけて屋根の葺替工事を実施し、欠損していた主屋根の飾り柵、塔屋の旗竿なども復元しました。
その後、昭和57年度~58年度において修復のための調査工事を行い、古写真や資料に基づく入念な調査と様々な実験を重ね、綿密な修理方針を定めました。
これに基づき、昭和59年10月、保存修理工事に着手、恋路機関33ヶ月を経て昭和62年6月、工事は完了しました。
工事は、可能な限り竣工当初の姿に復元することを目的とし、地元の技術陣が力を結集してあたりましたが、内装品の修理や新調には、全国の職人の協力を得ました。
ここでは調査、修理工事の際、解体、剥離されて姿を現わした竣工当初の技術や物品を展示し、文化財保存修理工事の方法などを広く理解していただくため公開しています。
(説明板より)』
『 運 河 公 園
運河公園は、小樽運河から旧日本郵船(株)小樽支店(国指定重要文化財)の間にあった専用船入澗(ふないりま)と倉庫群の跡地につくられた公園であり、運河とその周辺の往時の面影を今に伝える記念公園です。
正面に威風堂々とそびえる旧日本郵船(株)小樽支店は、明治の終わりから昭和初期にかけて外国との貿易等により隆盛を極めた海運会社で、荷を満載した艀(はしけ)が小樽運河からこの船入澗に出入りし倉庫への荷役を行っていました。
当時、小樽港は、これらの海運事業により北海道開拓の拠点として重要な役割を果たしていました。
小樽市では、歴史的景観を次世代に引き継ぐため、当時、この敷地内にあった建築物や構造物の建設材料をできるだけ保存・再利用し、公園の整備を行いました。
平成10年10月竣工
(説明板より)』
※ 小樽市ホームページ「重要文化財旧日本郵船(株)小樽支店」を参考にさせて頂きました。
今回で、この「小樽散歩」シリーズは終了させて頂きます、ありがとうございました。
ご訪問頂きありがとうございました。
手宮洞窟保存館 👈 今 回
※青字部分をクリックすると、そのページが表示されます。
※これまで掲載した記事をご覧いただくには、「ホーム」ページの「インデックス」をご利用ください。